私はあるときから、患者が「思い残していること」が視えるようになった。これは一種の能力なのだろうか。そこにいるはずのない人、あるはずのないものを視てしまう。それは私にしか視えていないらしい。あたかもそこにいるかのように視えるのだけれど、触れたり交流したりはできない。私が一方的に視ているだけで、「思い残し」は私を認識していないのだろう。患者の思い残したもの、心に引っかかっているものが、立体的な絵となってそこに映し出されているような状態だ。
そして「思い残し」は、どうやら患者が死を意識したときに現れるらしい。私が「思い残し」を解消すれば、患者は思い残すことを一つ減らしてより安らかに闘病できる、と思っている。
ほかの部屋のすべての見回りを終えてから、もう一度大岡さんのベッドサイドへ行ってみる。女の子はやっぱりそこにいた。立ち止まってゆっくり眺めてみる。寂しそうな目をしている。この子はいったい、誰なのだろう。今どこで、何をしているのだろう。
ナースステーションへ戻り、中央に置かれた大きな円卓に座って、タブレットで大岡さんのカルテを確認する。
大岡 悟 五十歳 男性
【現病歴】
マンションの庭木の剪定中に脚立から転落。マンションの住人が発見し、一一九番通報。救急車到着時、JCSIII‐300。DMの持病あり。搬送時のBS28。骨折なし。左手に軽度の擦過傷。重症低血糖後の昏迷が続いている。四月四日、救急病棟より長期療養型病棟へ転棟。
【既往歴】
糖尿病(血糖降下薬内服あり)
JCSはジャパン・コーマ・スケールの略で、意識レベルを表す評価基準だ。I‐0は意識が清明な状態。そこから数字が大きくなるほどに意識レベルは低下していく。大岡さんはIII‐300だから、JCSの中で一番大きな数字だ。つまりは、痛みにも反応しないほど重篤な意識障害に当てはまる。BSとは血糖値のことで、空腹時の正常値が70~100と言われており、70未満でふらつきや疲労感などが現れて、50を切るとけいれんや昏睡などの症状がでる。大岡さんの血糖値28は、死に至る可能性のあるとんでもなく危険な状態だったのだ。
2024.05.11(土)