休憩へ行っていた透子さんが戻ってきた。
「卯月、休憩ありがとう。なんかあった?」
透子さんに報告すべきこと、つまり看護師の仕事として報告することは何もなかった。
「特にないです。三〇三号室の呼吸器のガーゼ、交換しました」
「ありがとう。最近ちょっと痰が多いよね。あとで吸引しておくわ。……ん? 大岡さん、なんか気になるの?」
透子さんが大岡さんのカルテをのぞいて言う。私は「思い残し」が視えることを職場の人に言っていない。
「ああ、低血糖って怖いなって思いまして」
「そうね。侮っちゃだめよねえ」
「搬送時、BS28ってめっちゃ怖いですよね」
「やばいよね。血糖降下薬飲んだあと、お昼ごはん食べなかったのかね」
血糖値の上がりすぎを防ぐために、糖尿病の患者にはインスリンの自己注射や薬が必要だ。大岡さんは内服で調整していたようだが、内服したらすぐに何か食べないと、今度は血糖値が下がりすぎてしまう。
「マンションの木の剪定中に倒れたんですよね」
「らしいよ。前に面会にいらした職場の人に聞いたんだけど、すごく仕事熱心な人だったんだって。職人気質っていうの? 真面目で几帳面。だから、剪定中に脚立から落ちるなんて、大岡さんに限って、って感じだったんだって。搬送時から完全に昏迷状態でしょう? 低血糖時用のブドウ糖、持っていなかったのかな」
「どうなんでしょうね」
カルテを改めて眺める。独身で家族はいない。仕事一筋の職人が、思い残している女の子とは、いったい誰なんだろうか。
透子さんは一つ大きく伸びをして、茶色く染めた長い髪を結い直し、くるりと丸めてネットに入れシニヨンにした。仮眠をしていたはずだけれど、アイメイクもきれいに整っている。
「それにしても、この病棟は本当に静かだねえ」
神原透子さんは去年オペ室から異動してきた七年目の先輩だ。まったく畑違いの科に来たことになる。明るい茶色の髪色も、オペ室時代の名残だろう。オペ室ではほとんどの患者には意識がない。手術前に、説明のために患者に会うこともたまにはあるようだが、基本的には全身麻酔で眠っている患者を相手にしている。だから、髪色の制限が緩めのところが多いのだ。そのかわり、清潔にはどの科よりも注意が必要だから、アクセサリーや爪の長さなど、厳しい部分は厳しい。透子さんのアイメイクがばっちりなのも、オペ室はいつもマスクをしている科だから目元だけは気合を入れる、と聞いたことがあった。長期療養はナチュラルメイクの看護師が多いから、科による違いは興味深い。
2024.05.11(土)