「今のうちにはクリームも砂糖もありませんよ。苦いのを我慢してブラックにしたら三キロ減りましたからね」
言いつつツチヤ先生はカップをわたしの前に置いた。テーブルには、ちょうどカップ二杯分のスペースが空いていた。
一口飲んだ先生は、顔をしかめて、傍らのスナック菓子の袋に手を伸ばした。わたしは自分のバッグから板チョコを取り出した。
「実はわたしも、コーヒーだけ、は苦手なんです。必ず甘いものを一緒にいただくんです。せっかくご馳走になったし、気を入れて先生を誉めることにします。先生の本は逆説だらけですが、ごく稀にシリアス・ツチヤが顔を覗かせることがあります。数十年というもの、学者として研究に一心不乱だった、というのは最初は眉唾かと思いました。しかし予想したどんでん返しはありませんでした。次の一文で、わたしは思わず姿勢を正しました」
〈わたしは人生を賭けて失敗してもかまわないと思っていたし、途中で一度、それまでの二十年間の研究が完全な無駄だったと気づいたが、後悔の念は微塵もなかった。〉(「一心不乱になるとき」)
「これ、かっこいいですよ。あれ? 先生?」
先生の姿は消えて、後に柔和な微笑みだけが残っていた。先生はチェシャ猫だったんだ。納得したところで目が覚めた。机に突っ伏して寝ていたと分かるまでに数秒かかった。目の前のパソコンの画面は白い。
急がば転ぶ日々(文春文庫 つ 11-29)
定価 748円(税込)
文藝春秋
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2024.04.16(火)
文=荻野 アンナ(作家)