『定年後に読む不滅の名著100選』(文藝春秋編)
『定年後に読む不滅の名著100選』(文藝春秋編)

 はじめに

 人と本の出会いは一度きりではありません。

 名著と言われる本には、必ず二読三読に耐えうる深みがあります。

 歳月を重ね、人生経験を積んだからこそ発見する魅力があるでしょう。

 あるいは、若い日にはおぼろげだったものが、くっきりと輪郭を持つ瞬間もあるに違いありません。

 豊かな読書体験を持つ各界の識者が真の名著を選んでくださいました。

 本書のタイトルは「定年後に読む~」になっておりますが、定年を迎えた方もこれからの方も、手に取ってもらえたらこれに勝る喜びはありません。

編集部識す

 ※選者の中には故人も含まれます。選者本人もしくはご遺族から訂正が入らない限り、肩書は初出当時のままとしました。


第一章 定年後に読みたい30冊

『触手』小田仁二郎(真善美社・絶版) 選/瀬戸内寂聴(作家)

 小田仁二郎は山形県東置賜郡宮内町に生れている。父は医者で裕福な家庭に育っていた。中学時代に新潮社の世界文学全集を読み文学青年になる。早稲田の仏文科に学び、「ヴァリエテ」「紀元」などの同人となって小説家を志す。卒論はモーパッサンだった。卒業後都新聞に勤める。同僚に井上友一郎、北原武夫がいた。昭和十六年、都新聞を退社し文学に専念する。昭和二十三年、真善美社のアプレゲール叢書の一冊として創作集『触手』が出版された。

──私の、十本の指、その腹、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずをまき、うずの中心に、はらは、ふつくりふくれている。それをみつめている私。──

 そういう書き出しの文章は、それまで誰も見たことはなかった。短く句読点で切られた漢字の少い文体は、大きく力強い息の吐けない半病人の、やせた男が鉛筆を握りしめ、肉のそげた細い指で書いているような感じがした。

 それを読むと体じゅうの毛穴に目に見えないほど小さな虫がうごめいているような目まいを覚える。幼童のヰタ・セクスアリス。

 それはやはり衝撃的な文体であった。

2024.04.12(金)