そこにいないはずの妻と会話し、空しく消え去ったかと思える過去にこそ存在感を見出し、極限の精神力で犠牲を受け入れようとする。こうした人間の心の働きが、本書で最も有名な場面、収容所に沈む太陽を見て誰かが口にする一言、

「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」

 につながってゆく。

 ある時フランクルは、医師として病人の囚人に付き添い、収容所を移動することになる。病人のグループと残るグループ。前者の方がより死に近いはずだった。フランクルは残る友人に、妻への遺言を託す。泣きじゃくる友人に向かい、一言一言、口伝えで、どんなに妻を愛していたか語る。

 結局、友人は亡くなり、フランクルは生き残った。妻もまた、口伝えの遺言が残されるずっと以前に死んでいた。

『夜と霧』を読み返すたび、収容所で交わされただろう数々の言葉について考える。死者との声にならない会話、どこにも行き着けなかった遺言、世界の美しさをたたえる独り言。それらがすぐ耳元で聞こえてくるように感じる。そして耳を澄ませることと小説を書くことが、自分にとってとてもつながりの深い行為であるのを、教えられるのだ。


「はじめに」、「第一章 定年後に読みたい30冊」より

定年後に読む不滅の名著200選(文春新書 1442)

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文藝春秋
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2024.04.12(金)