一八三三年、この郡のジェファソンの町に突然トマス・サトペンという傲岸な男が、馬に跨り一団の黒人奴隷を引き連れて現れ、郊外の土地をインディアンから強奪し、屋敷を建て壮大な農園を開いた。その後トマスは町の商家の娘と強引に結婚し、一男一女をもうけるが、彼にはほかにも、以前ハイチで混血の先妻に産ませた息子や黒人奴隷に産ませた娘がいる。やがて南北戦争をはさんで、成長したこれら同腹異腹の子どもたちのあいだで、近親相姦やそれに絡む殺人事件が起こる。トマス自身も戦後は零落し、孫のような貧農の娘を妊娠させ、その祖父に大鎌で斬り殺される。
この小説は、旧約聖書かギリシア悲劇にでも出てきそうなサトペン家のこうした一連の事件が、半世紀後の一九〇九年に、立場の異なる三人の人物によってそれぞれの視点から語られ、次第にその全容を表わすという複雑な構成をとっている。
今は、愛し合った者たちも憎み合った者たちもみな死に絶えて事件は霧に包まれ、残ったのは廃屋となったサトペン荘だけ、それもこの年に焼け落ちてしまい、あとにはただ茫々と時間が流れていくばかり。どうやらこの作品の主役はこの「時間」であったらしい。
これを読み終えたあと私は、ドストエフスキーの『悪霊』を初めて読み終えたときと同様、数日茫然としていた、自分の存在を根底から揺さぶられる不安と快感を同時に味わいながら。文学のもつ力のすごさをいやというほど教えてくれた作品である。その力の秘密をもう少しだけ解き明かしてみたいのだ。
本来なら本業の哲学からなにか一冊選べばよさそうなものだが、なぜそうしないのか、そのわけを考えてみよう。
どうやら哲学書のばあいには、分かるものは一度読んだだけでよく分かるし、分からないものは何度読んでもピンとこないものらしい。繰りかえし読んでいくうちに次第に分かってくるといったものもないわけではないが(私にとってハイデガーの『存在と時間』がそうだった)、そんなすごい牽引力のある本があれば、本業なのだから当然すでにそういう読み方をしているはずだ。したがって、ここでは「再発見」ということが起りにくい。どうもそういう仕組みであるらしい。
2024.04.12(金)