三 批評と沈黙

 そもそも批評とは、なんだろう。それは世界の自明性が壊れてしまった後で、作品(=批評の対象)に感じる「意味」を媒介とすることで、他者との関係を作りなおそうとする試みだと思う。

 鑑賞した百人が百人、同じように抱くだろう感想を書いた文章を、批評とは呼ばない。それは単に自明なものをなぞるに過ぎない。一方で「こんな独創的な解釈ができるのは私だけだ」と批評家が誇るとき、実は彼(ないし彼女)こそが、他者にもその解釈を共有してほしいと――つまり自分が感じとった「意味」は、批評の読者にも理解されうるはずだと信じている。そうでなければ、わざわざ批評として文字にする必要はない。

 江藤にとっての慶子夫人は、おそらく批評を通じて最も繋がりたい相手であり、同志であり、そして厄介な他者だった。

 死別へと向かう『妻と私』の不穏な予感は、「はじめてアメリカに留学したとき、……家内の顎が突然はずれたことがある。そのように家内には、予想もできない不思議なことがときどき起った」(二一頁)と記されることで始まる。一九六五年に刊行された『アメリカと私』の冒頭にある、ファンにはよく知られた挿話を指すものだ。同書と、その後日談である「日本と私」とを並べて読むとき、本書の背景をなす恩讐ともにある夫妻の旅路が、痛々しくも鮮やかに姿を現す。

 江藤淳が慶大の同期生だった三浦慶子と結婚したのは、大学院に在学中の一九五七年。戦後世代を代表する批評家として名を上げた後、六二年にロックフェラー財団のプログラムでプリンストンに招かれるが、ロサンゼルスでいきなり夫人が体調を崩す。なんとしても医療費を支給させるべく、財団相手に奮闘した体験を皮切りとして米国風の自主自立の精神を体得してゆく過程が、『アメリカと私』の主旋律をなす。

 六四年の帰国後を綴る「日本と私」の初回によれば、帰路に欧州を経由した際にも慶子夫人は腹痛で入院し、江藤は旅程をキャンセルしている。『アメリカと私』と同じ『朝日ジャーナル』誌に六七年から連載されたものの、盟友だった山川方夫の事故死(六五年)を描いたところで中絶し、単行本にはならなかった。書籍に入るのは江藤の没後、福田和也氏の編んだ『江藤淳コレクション2 エセー』が初である。

2024.03.07(木)
文=與那覇 潤(評論家)