おそらく江藤は、批評ではなく創作として、「死の時間」に抗いながら検閲なしの世界を描き出すことができると示したかったのではないか。かつて精神的な自伝を「永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた」と書き始めた作家は、戦後日本の現実の中で、真情を偽らずにすむ生き方を求めて果たせず、自死に至った(三島由紀夫『仮面の告白』一九四九年)。

 批評家として出立した江藤は、そうした無理をせず、むしろいかに自分には乳児期の記憶がないかを強調しつつ筆を進める。そして歴史家の手つきで、亡き母の残した手紙を筆写し、幼少期に自分から奪われた可能性の復元に努めようとする。

 中絶未完となった第二回の終幕は、この生き続けようとする江藤の試みを損なった元凶をあまりにもあからさまにして、傷口を覗く心地がする。つい先日も本人の責任で妻に病気を告知せよと迫った、あの酷薄な自己決定の論理が、戦前に母を追い詰めた存在として再び姿を現す。

 母はその点で、あまりにも素直であった。つまり、「不行届」は努力によって行き届かせることができると、確信し過ぎているようなところがあった。(一五七頁)

 書くという営為によって、自然らしい正しさを失った敗戦後の時代を生き延びた批評家は最後、この場所から先を書き継げずに、命を絶った。

 だがその敗北は、必然なのだろうか。

 批評とは異なる形で、言葉にすら頼らずに、すべてが壊れて見える世界を他者とともに持ちこたえてゆく方法は、ほんとうにないのだろうか。

 おそらくは生涯で初めて、書き続ける必要はなく「私たちは、ただ一緒にいた。一緒にいることが、何よりも大切なのであった」(六七頁)という境地を知った『妻と私』の体験に、他の形で活かされる可能性は、なかったのか――。

 その問いが本書を読み終えるごと、いつまでも私の中に響いてやまない。

妻と私・幼年時代(文春学藝ライブラリー)

定価 1,540円(税込)
文藝春秋
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2024.03.07(木)
文=與那覇 潤(評論家)