なにが、そこまでの反響を呼び起こしたのか。ひとつには江藤が得ていた知名度と権威だが、それだけではありえない。当時は一九九七年夏にわが国初の臓器移植法が成立した直後で、人の死をめぐる「自己決定権」の当否が、TVを含むマスメディアで激論された記憶が生々しかった。拙著『平成史 昨日の世界のすべて』(文藝春秋)に記したように、それはポスト冷戦期にあれほど輝いて見えた自由と自立の理想が、(かげ)りを帯び失速してゆく前触れでもあった。

『妻と私』で、医師から妻が末期がんの状態にあると知らされた江藤は、こう書く。

 医者は、当の本人には「脳内出血」だといっているのだ。そして、家族には本当の病名を告げて、家族からそれを患者に「告知」せよという。……これは患者にとってはもちろん、家族にとっても残酷きわまる方法ではないか。しかも、「告知」の責任だけを負わされて、患者を救うことのできない家族にいたっては、あまりに惨めというほかないではないか。(二七―二八頁)

「いくら現代の流行であるにせよ、このからくりには容易に同調できない」(二八頁)と憤る江藤は、妻に対して告知はしないと決める。そもそも「不必要な苦痛を味わわずに、静かに眠るがごとく逝きたい」(三五頁)というのが、夫妻で長年話しあった理想の臨終だからだ。しかし病院長と高校時代から友人だったのは妻の方で、医療の知識で劣ると自認する夫には、彼女に病名を隠しきる自信が持てない。だからターミナルケアの鎮痛剤を「新薬の抗生剤だ」と偽って与えたときも、「医学知識に詳しい家内が『新薬』の性質に気付いていないとも思われなかった」(七〇頁)。

 小林秀雄亡き後(一九八三年没)、文壇を代表する保守派となって久しい江藤だが、その本領はマッチョイズムにはない。むしろ敗戦以降、日本ではいかに威厳ある家父長なる存在が不可能になり、夫が妻を守れなくなったかが、六七年刊行の主著『成熟と喪失』の主題だった(とくに、その小島信夫『抱擁家族』論)。

 だが、まさか自身がかつて評論した対象と同じ役柄を、より無力な形で演じさせられ、その過程を散文に記し公表することになろうとは。いわば批評家が作中人物に(・・・・・・・・・)化けて小説に紛れ込んでしまう、メタフィクションめいた事態がリアルに起きた。『妻と私』はその困難を体験者の目で綴った、類書のない当事者研究でもある。

2024.03.07(木)
文=與那覇 潤(評論家)