つまり前者には本人の責任は生じないが、後者には本人の責任が生じる。酒の問題ではなく、それを求める(依存する)本人の問題にするために、依存症という言葉がWHOで用いられるようになったのだ。
今でも「あの人、アル中じゃないの?」のように、病気というより半ば蔑視のまなざしを含んだ言葉としてアルコール中毒という言葉は根強く残っている。それがスティグマをもたらすことは言うまでもない。
多くの人たちが「アル中」という言葉に反発し、自らの飲酒問題を否認する理由に使うことも多かったが、「依存症」という言葉ができても結果はそれほど変わらなかった。つまりさまざまな依存症は、本人はそれを認めようとしないのがふつうなのだ。
ガンや糖尿だったらどうだろう。うれしくはないけど認めざるを得ないはずだ。でも依存症は違う。認めるくらいなら死んだほうがましというくらい、もっと切実なのだ。
私が精神科病院でアルコール依存症の患者さんと出会ったころから50年近くが経ったが、変わらないのは飲酒に対する日本社会の寛容さだ。酒の失敗に対しても、酔ってのことだと大目に見られ、性犯罪に至っては当の加害者が「酔ってのことで記憶にありません」という言い訳が、つい最近まで容認されたのである。
「AC(アダルト・チルドレン)」の誕生
アルコール依存症の父親は、家族がいっしょに食卓を囲む楽しいはずの食事場面を暗転させてしまう。酔った人格としらふの人格を交互に見せることは、いったいどちらが「ほんとうの」父なのだろうと幼い子どもに思わせる。すでに人生早期に、「世界への不信」を感じさせてしまうのだ。何を信じればいいのかという子どもの混乱について、おとなはあまりに想像力に乏しい。
まして妻や子どもたちに絡んだり、怒りを露わにして暴言・暴力に及んだ場合、それは虐待であり、妻へのDVである。家庭にしか居場所のない子どもが、夕食のたびにそのような危険にさらされるなんて、どんなに残酷なことだろう。
2024.01.28(日)
文=信田さよ子