50分を超える大曲。苦悩から解放され“歓喜の世界”へ
後半の曲目はブラームスの「交響曲 第1番」。50分以上の大曲だ。序奏の第一撃――サントリーホールの広い音響空間全体に響きわたる劇的なハーモニーと強烈な音のうねりは、客席を一気にこの偉大なる作品の世界へと引き込んだ。そして、後に現れる“運命の動機”。慟哭ともいえるブラームス特有の暗澹たる疾風怒涛の音の世界に真っ向から対峙するかのようにソヒエフは果敢に団員たちを導いてゆく。聴き手を深い沼へと引き込む強烈な音圧が空間を席巻する。
第2楽章は、三拍子の優雅で豊かな旋律からなる緩徐楽章(ゆっくりとした速度の楽章)だ。一同、ここぞとばかりに “ウィーンの響き”を存分に聴かせる。弦楽器群の滑らかなボーイングから紡ぎだされる弦の響きと、それに呼応する木管楽器群。“愛の囁き”や“恋人同士の対話”を思い起こさせるかのような親密な、しかし格調高い旋律を彩るメンバーたちの歌心は、このオーケストラの真骨頂だ。
ソヒエフの棒が紡ぎだすやさしくも厳粛な音の世界は、一面銀世界に覆われた厳しくも美しいウィーンの冬の静けさを感じさせる。張り詰めた空気はまさにそこに漂うものだ。その静謐な情景をコンサートマスターのライナー・ホーネックのヴァイオリン・ソロがえも言われぬ甘美な音で包み込む。言葉にしがたい美しさは悲愴感すら感じさせるほどだ。多くの聴衆が「この夢の瞬間が永遠に醒めないでほしい」と思ったことだろう。
悲劇的な一撃で始まるこの作品は最終第4楽章で“歓喜の世界”へと昇華してゆく。第1楽章同様、不穏な気配で始まり、次第に異様な激高を見せる序奏。しかし、ふいにティンパニが諫めるかのようにグロテスクな空気を漂わせ、そのあり余る激情をさえぎる。
そして、いよいよ光明の世界へーー。アルペンホルンの天上の響きが天空を満たす。深くやさしさに満ちたホルンソロの歌心あふれる旋律は祝祭のファンファーレとなり、一同あの有名な “歓喜の主題”へと堂々と突き進む。ソヒエフは襟を正すかのように丁寧に太い線を描き、新たなる世界を荘厳に出現させた。
強烈な熱量で流れ込んだ終結のクライマックス。団員一人ひとりの身体に沁みついたブラームス特有の力強いアクセント感と幾層ものレイヤーを持つ厚みのあるハーモニーの一体感に会場全体の空気が振動するかのようだった。
そして、フィナーレ。すべての抑圧から解放され“歓喜の世界”へと向かう劇的な音の波による“カタルシス”。一人ひとりの楽団員の思いが見事に収斂され、一つの魂となって昇華してゆくかのようなある種の“神がかった”瞬間でもあった。
演奏後、ソヒエフがティンパニ奏者、そしてホルン以下の金管・木管楽器と見事なソロ演奏を聴かせた奏者たちを立たせ、心からの賛辞を贈っていたのが印象的だった。もちろん会場からも割れんばかりの拍手喝采で迎えられた。
アンコールはお待ちかねのウィンナワルツ二題。ヨハン・シュトラウスII世の「春の声」と「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。強弱もテンポも大きく揺らす大胆な本場のウィンナワルツに会場はさらなる高揚感に包まれる。ほろ酔い加減? とも思えるほどの大胆な揺れ感に一緒に踊りだしたくなるくらいだった。
ニューイヤーコンサートを先取りするかのような華やかな雰囲気に、終演後もゲストの多くが、しばし席を離れずその場で美しい余韻に浸る様子が印象的だった。
2023.12.18(月)
文=朝岡久美子
協力=ロレックス