このような説話原形はおそらく世界中の民話や恐怖譚のうちに見られるはずである。けれども、「親の子に対する殺意」を認めることについてはつよい心理的禁忌が働くから、民話ではふつう殺意を抱くのは「邪悪な継母」に置き換えられる。でも、本来は「母親」なのだと思う。この禁忌をまっすぐに描いた点が山岸先生はすごい。

『悪夢』もまた『海の魚鱗宮』と同系列のトラウマ系恐怖譚である。自分がほんとうはなにものであるのかについての自覚の欠如が主人公メイの人格を形成している。自分が殺人者であることを忘れているということが、彼女がかろうじて「正気」を保つことを可能にしている。いや、「正気を保つ」ではなく、この場合は「狂気を保つ」と言うべきなのだろう。「部分的に狂人であること」によってかろうじて日常生活をやり過ごすことができている人がこの世にはいる。少なからずいる。

『パイド・パイパー』も、忘れようとしていた幼児期のトラウマ的経験の現場になぜか立ち戻り、その時と同じ「怖いこと」を経験してしまう女の話である。自責の念にさいなまれることを拒んで、それから目を背けようとしたものは、必ず「不気味なもの」として回帰してくる。それは後悔も罪責感も嫉妬も同じである。

 どれもよくこんな怖い話を思いつくな……と絶句するほど怖い話ばかりである。でも、これは作家的な野心の達成というのとは違うのではないかと私は思う。山岸先生は実はこのような「怖いマンガ」によって祓いをしている(・・・・・・・)のだと思う。先生の心の奥底にある「怖いもの」を明るいところに引きずり出して、その瘴気を希釈しようとしているのである。「お祓い」なのだから手抜きはできない。うっかり一番怖いところを祓い残したら、そこから繰り返し「怖いもの」が甦って来る。膿は出し切らなければいけない。だから、これ以上怖い話を思いつけないというところ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)まで恐怖の深みに垂鉛をおろすことを山岸先生はミッションとして自らに課しているのである。だと思う。

2023.11.08(水)
文=内田 樹(思想家 神戸女学院大学名誉教授)