でも、絶対に逃げ切れない場合がある。それは自分を恐怖させているのが自分自身だという場合である。「恐怖するもの」と「恐怖させるもの」が同一であれば、いかなる手立てを講じても、人は恐怖から逃れることはできない。
上に引いたポオの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』はそういう恐怖譚である。これは死の直前に催眠術をかけられたせいで、死ぬことができなくなってしまった男の話である。物語の最後で、催眠術を解かれたヴァルドマアル氏は生物学的にはたしかに死ぬのだけれど、彼はその時に自分の現状をうっかり「私はいま死んでいる(I am dead)」という現在形で語ってしまう。永劫にまで引き延ばされた「死につつある苦痛」のうちにヴァルドマアル氏はわれとわが身を釘付けにしてしまうのである。と要約しているだけで怖くなってきた。私の哲学上の師であるエマニュエル・レヴィナスはどこかでこのポオの短編を「この世で最も怖い話」だと書いていた。
山岸凉子先生の「怖いマンガ」もこの怖さに深いところで通じている。山岸先生の「怖いマンガ」の主人公たちは全員若い女性で、みんな信じられないくらい怖い思いをするのだが、いくつかのマンガでは、主人公たちはこの恐怖を振り払うことができず、この恐怖をエンドレスで苦しみ続けることを暗示して物語は終わる。
彼女たちが恐怖を振り払うことができないのは、彼女たちの恐怖が外部ではなく、彼女たちの内部に起源を持つからである。彼女たち自身の心の底にわだかまる「ゆがみ」が恐怖の原因なのである。彼女たちが「ゆがんで」しまったのは、多くは幼児期の精神外傷(しばしば親によってつけられた傷)のゆえである。精神外傷とは、「それについて語ることができないという不能が人格をかたちづくるような経験」のことである。彼女たちは自分の中に「外傷的な何か」を抱え込み、それに支配されているのであるが、それが何であるかを語ることができず、そのようなものを抱え込んでいることさえ知らない。いわば「自分自身を毒し、自分自身を損なうものであること」が、彼女たちのアイデンティティーを形成しているのである。だから、彼女たちが恐るべきものと向き合うとき、うかつに「わが身を守る」という構えをとると、それは「恐るべきものをさらに強化する」ということになってしまうのである。救いがない。
2023.11.08(水)
文=内田 樹(思想家 神戸女学院大学名誉教授)