『自選作品集 海の魚鱗宮』(山岸 凉子)
『自選作品集 海の魚鱗宮』(山岸 凉子)

 この夏、山岸凉子先生の「怖いマンガ」について書いて欲しいというオファーが二つ続けて来た。今夏は例年にない酷暑になりそうだから「背筋が凍るほど怖いもの」の需要が高まるという話が出版社の企画会議で出たのかも知れない。その会議のようすを想像しているうちに、私がそこにいたらどんな提案をするだろうか考えた。「内田君の考える『背筋が凍るもの』って何?」と訊かれたら、少し考えてこんなリストを挙げるのではないかと思った。

 エドガー・アラン・ポオの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』、上田秋成の『吉備津の釜』、スティーヴン・キングの『シャイニング』、F・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』、そして山岸凉子の『わたしの人形は良い人形』。

 こうやってタイトルを書いているだけで背中がぞくぞくしてくる。怖さの質はそれぞれに違う。どうして「そんなもの」に取り憑かれなければならないのか「理由がわからない」という怖さもあるし、「怖いもの」の解像度が低いせいで「何だかわからないので怖い」ということもある。そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、最も救いなく人を恐怖させるのは、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という物語ではないかと思う。山岸先生のマンガはまさにそのような恐怖譚である。

 外部から悪鬼の類が襲ってくるのであれば、何らかの手立てを講じて、それと「戦う」ということができる。結果的に負けるにしても、「戦う」という構えをしている限り、なんとか自尊感情を維持することはできる。でも、それができない場合がある。自分を怖れさせるものがあまりに強大であるために、「戦う」ことができないという場合がそうである。恐怖のあまり自我が解体してしまって、戦うことなど思いもよらず、ただひたすら絶叫しながら、あてもなく絶望的に逃れ続けることしかできないという話はたしかに怖い。すごく怖い。それでも、逃げられる限り、どこかで逃げ切るチャンスはある。『シャイニング』でも『悪魔のいけにえ』『ハロウィン』でも『スクリーム』でも、よれよれになりながらも、主人公はかろうじて逃げ切ることができた。

2023.11.08(水)
文=内田 樹(思想家 神戸女学院大学名誉教授)