この記事の連載

 夏祭り、バーベキューの締め、カップ麺と様々な場面で親しまれているソース焼きそば。しかしその起源はあまり知られていない。ソース焼きそばはいつごろ、どこで、どのように生まれたのか。その謎を、焼きそば食べ歩きブログ「焼きそば名店探訪録」の運営者、塩崎省吾さんが解き明かしていく著書『ソース焼きそばの謎』から、一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目。後篇を読む


 私は焼きそばを食べ歩くのを趣味としている。特に焼きそばの起源や伝播を解明するため、なるべく古くから焼きそばを提供している店を訪ね歩いている。その過程で、戦前からソース焼きそばを提供してきた三軒の老舗に出会った。三軒とも浅草周辺に集中しているため、私は「ソース焼きそばは戦前の浅草で生まれた」と考えている。

 実はその三軒のうちの一軒は、大正時代から焼きそばを提供しているという。ソース焼きそばはお好み焼きから派生したと思っていた私だが、いくら探してもその店より前にお好み焼きが存在した痕跡を見つけられないでいた。だが『お好み焼きの物語』を読み、お好み焼きが明治末期には存在していたことを知り、ようやくお好み焼きからソース焼きそばが派生したという結論を確信することができた。

 ちなみに、その大正時代から焼きそばを提供しているという店は千束にある。奇しくも、『お好み焼きの物語』で《焼きそばの初出は浅草千束町のお好み焼き屋台》と述べていた説の根拠になった証言と同じ町域なのだ。では、戦前からソース焼きそばを提供している三軒を、創業年が最近の店から順番に紹介していこう。

昭和12年創業 浅草染太郎

 戦前からの老舗、まず一軒目は前節でも触れた、風流お好み焼き・浅草染太郎だ。

 染太郎は昭和12年に西浅草──当時、田島町と呼ばれた地域──で創業した。昭和20年3月の東京大空襲で店舗を焼失。元の位置から少し離れた、現在の場所で再建されたのは戦後のことだ。創業以来、浅草の文士・芸人・役者たちに愛されてきた有名店で、店内には彼らの色紙や写真が所狭しと飾られている。

 いくつかの資料を参照して、染太郎がどんな店だったのか掘り下げてみよう。

 店の屋号は、創業者・崎本はるの亭主だった漫才師・林家染太郎の名前から付けられた。亭主の出征を機に商売を始めたのだが、『如何なる星の下に』の著者・高見順はその段階から関わっている。

 屋号はどうしよう? 染太郎でいいじゃないか。その上にぼくが“風流お好み焼”とつけた。

2023.09.23(土)
著者=塩崎省吾