まず印象的だったのは、厨房がとても清潔だったこと。調理台やコンロも磨き込まれており、白いレンガ柄の壁にも染みのようなものは見当たらない。包丁もきれいに研いであったので、それらを確認しただけで「ここはきっといい店だな」と確信を持つことができた。
まずはビールと餃子を注文!
という堅い話はともかく、まずはビールと餃子を頼もう。メニューを確認してみれば、意外なことに飲み物はビールの中瓶のみ。
「飲んでく人、いない。だって、ビール高いっすもん(笑)。だから飲みたい人は安いところへ、居酒屋へ行くの」
と、店主の横川志郎さんはいう。神経質そうにも見えるが、とても気さくな方である。「おいくつなんですか? ここはいつ開いたんですか?」と尋ねると、「いやあ、いわしてもらうと長いよ(笑)」との答え。
「もうちょっとで後期高齢者ですよ。団塊の世代。働きっぱなしで損ばっかりしてます(笑)。出身は富山県なんですよ。萬金丹。だから、それを飲んだらアンポンタンというの。(富山といえば)売薬さんが有名でしょ。東京へは集団就職ですよ。なんてね(笑)。あの当時、もう金の卵ですよ。腐った卵になりましたけど。早く逝けっていわれてる」
二言三言話すたびに、なんらかのギャグを混ぜ込んでくる。だから、ついつい引き込まれてしまうが、仕事はきっちりていねいである。餃子もつくり置きではなく、注文が入ってから包んでいた。そのせいか、出てきた餃子は野菜の鮮度が抜群。追加でお願いした肉野菜炒めの味つけも、濃すぎず、薄すぎず、これまたちょうどいい感じ。だから、ビールがどんどん空いてしまう。
なぜ中野で開店したのか?
だが、それもそのはず。上京後は南麻布、自由が丘、目黒、三軒茶屋などの店で修行を積んできたそうなのだ。そして、昭和53年にこの店を開いた。でも、なぜ南麻布でも目黒でもなく中野を選んだのだろう?
「条件がよかったからじゃないですか? この通りだけで4軒あったんだけどね、昔は。和風ラーメンとか、いろいろとありましたよ。でも、人を使ったらこの通りはダメですから。人件費が出ないですよ。ZEROホールでなにか(催し物が)あるときは一時的に来るけど。なかなかね、難しいですよ。いま、人にやらせる時代だからね。自分でやる時代じゃなくなっちゃった。頭のいい人はコンピュータでべーべー、べーべーやって、あとは人にやらせる。それで、働いてる人はみんな外人ばっかりです。日本人なんかやらないですよ。メンツばっかり高いから。学校出て、こんなことやらないよっていう奴ばっかり」
2023.01.27(金)
文=印南敦史