鎌倉幕府には、国会議事堂や総理官邸にあたるものは存在しません。将軍が住むところがそのまま幕府でした。今でいえば、総理の私邸で閣議を行い法律を作っていたのです。この時点では実朝が暮らす時政の家が幕府でした。
そこを義時の軍が襲撃します。時政の館にいた将軍・実朝を連れ出し、義時の館へ移してしまいました。これで勝負がつきました。翌日、義時は時政に代わって執権となりました。これが「牧氏の乱」と呼ばれる事件です。
私は、これは間違いなく義時による策略だったと考えます。このタイミングであれば自分のところに権力が転がり込んでくると踏んだ義時が、時政が将軍位簒奪の陰謀を企んでいるとのデマを流し、勝負を仕掛けたのだと考えます。まさに父・時政のお株を奪う謀略によって、時政から「玉」(実朝)を取り上げることに成功したのです。時政の失脚と同時に多くの御家人が出家しています。つまり、この政変によって幕府内の勢力図は一変し、義時派が幕府の中枢を握ることとなったのです。
空白地帯になった武蔵国に送り込んだ人物
その日のうちに、時政は出家し、さらに鎌倉を追放され、伊豆の所領に押し込められます。さすがの義時も親までは殺しませんでした。10年後の建保3(1215)年1月、時政は病没します。ちなみに牧の方も京都に追放されますが、藤原定家の『明月記』は、牧の方は京都でとても贅沢な暮らしをしていると記しています。女性のたくましさを象徴しているようで興味深いエピソードです。
父・時政を失脚させた義時の次のターゲットは平賀朝雅でした。
京都守護を務めていた朝雅を討つために、義時は、京都に使者を派遣します。その日、朝雅は後鳥羽上皇と囲碁を打っていましたが、急報が入り、自分が討伐の対象になっていることを知ります。それを聞いた朝雅は覚悟を決めました。碁盤に目をやり石を数えたあと、「もはや逃れる術はありません」と言って後鳥羽上皇の御所を退出します。それを待ち構えていた武士たちによって、朝雅は討たれます。元久2年閏7月26日のことでした。
2022.12.31(土)
文=本郷和人