ここで興味深いのは、『吾妻鏡』に記された義時の反応です。

 義時は「重忠は頼朝公以来、ひたすら忠誠をつくしてきました。今どのような憤りがあって叛逆を企てるでしょうか。比企氏との戦いの折も率先して我らの味方をしてくれました。軽率に誅殺すれば、きっと後悔するでしょう」と父を諫めようとするのです。それを聞いた時政は、言葉を発することなく席を立ちます。

 義時が館に帰ると、牧の方の兄・大岡時親が訪ねてきて、牧の方の言葉を伝えます。

 

「重忠の謀反は明らかです。私はそれを知って将軍のために、秘かに時政様にお伝えしたのです。先ほどあなたの言ったことは重忠の悪事を赦そうとするもの。私はあなたの継母だから、それを憎み、(重忠を討つことに)賛成しないのでしょうか」

 そこまで言われたら仕方がない、と義時は重忠討伐に賛成しました。

 つまり、義時は畠山重忠を討つことを一度は止めた。しかし、親の命令だからしぶしぶ従った、というわけです。『吾妻鏡』は義時のためらいをしつこいまでに書いています。

 6月22日の早朝、謀反人の討伐を行うと将軍・実朝の命令が下ります。その命を受けて、畠山重保も将軍のもとに参上するため、家来を引き連れ、鶴岡八幡宮の方に向かっていました。すると、一ノ鳥居のところに来た時に、突然、重保の行く手をふさぐ一団が現れ、あっという間に包囲されてしまったのです。所詮、多勢に無勢で、重保はあっさりと討ち取られてしまいました。いまでも鎌倉駅から由比ガ浜に向かう途中の一ノ鳥居の横に、重保の供養塔が建っています。

重忠の最期

 一方の父の重忠は、秩父党の稲毛重成と榛谷重朝(2人は兄弟)から、「謀反人の討伐があるので、すぐに鎌倉に来て欲しい」との連絡を受け、元久2(1205)年6月19日に手勢を率いて武蔵国の館を出発していました。22日の昼、二俣川(現在の横浜市)付近で、重忠の軍勢134騎は、鎌倉からやってくる大軍と遭遇しました。総大将は義時でした。

2022.12.31(土)
文=本郷和人