何もしらない重忠は、「お前らどこへ行くんだ?」と聞いたはずです。「お前を討ちに行くんだ」と告げられ、その中で重保の死を知らされたのでしょう。
“武士の鑑”だけに、その最期も詳細に記されています。重忠の家臣が、「ここは戦線離脱して、本拠地に戻りましょう」と進言します。その時の重忠の言葉が、残されています。
〈「それは適当ではない。(戦いに際しては)家を忘れ親を忘れるのが武将の本意である。だから重保が誅殺された後、本拠を顧みることはできない。去る正治の頃、(梶原)景時は一宮の館を撤退し、途中で殺されてしまった。しばしの命を惜しむようであり、またあらかじめ陰謀の企てがあったようにも思われた。(このように)勘ぐられては面目がなかろう。まことに(景時の例)は後車の戒めとすべきである」〉(『吾妻鏡』元久2年6月22日)
畠山討伐軍の構成をみると、足利、小山、安達、八田、宇都宮、河越などなど関東の有力武士がほとんど集まっているような大軍勢です。それでも、134騎の重忠軍を討ち取るために4時間以上かかりました。最後は矢が重忠に命中し、首を取られたのです。
御家人の間で広がる疑念
義時は鎌倉に戻り、時政のところに参上しました。ここでも義時は次のように語っています。
「重忠の軍勢は非常に少なかった(この表現からも、重忠クラスが本気になると300騎ほどを動かす、という推測ができる)謀反の企ては嘘に違いない。昔から重忠とは轡を並べて一緒に戦ってきましたから、この首を見ると涙を流さないわけにはいきません」
言外に時政を非難する言葉です。時政はこの時も黙って席を立ったとされています。
討伐軍の大将だった義時が「謀反の企ては嘘だった」と言うほどですから、御家人の間でも、重忠討伐は正しかったのか、時政の陰謀だったのでは、という見方は広まったはずです。
時政は自分の保身のため、またしても口封じの策を講じました。時政と計って畠山重忠を鎌倉におびき出した稲毛重成と榛谷重朝の兄弟を殺したのです。「こいつらが秩父党のナンバー1になろうとして重忠を陥れた」としたかったのでしょうが、時政の意図は誰の目にも明らかでした。
平賀朝雅を将軍に?
重忠を討った2カ月後の元久2年閏7月19日、こんどは時政側に陰謀の容疑がかかります。
牧の方が源実朝を将軍の座から引きずりおろして、娘婿の平賀朝雅を4代将軍にしようとしたというのです。平賀氏は源氏一族のトップですから、確かに将軍になることは可能です。
2022.12.31(土)
文=本郷和人