コロナ禍は戦時下の暮らしに似ていた
――エッセイではコロナ禍の暮らしも書かれています。「コロナ禍の有様は戦時下に似ている」というのはまさにそうだと思います。自己責任論に拍車がかかったのもそうですが、給付金を家主である父親に振り込むなど、非常事態時に家父長制が強化されたのも同じように思います。
そうなんです。私は婦人雑誌をよく読んでいて、「コロナ禍でもこんなに楽しく過ごせるよ」みたいな特集があると、「じゃあやってやろう」と思えるタイプなんです。行事やイベントをやることが尊いという価値観で育ってきたので、楽しめることをやりたくなるんです。だから雑誌や辻(希美)ちゃんのブログにならい(ハロヲタなので辻ちゃんのやることには影響を受けます)、家のベランダで子どもと「#おうち夏祭り」や「#おうちディズニー」を全力でやりました。
一方で最近、NHKで「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」という番組をやっているのを見て気づいたことがあるんです。そこでは1960年代のアメリカの暮らしが紹介されていました。アメリカとソ連の関係が悪化していた時期です。番組では、核戦争になったときのために家にシェルターを掘って、シェルターの中にゲームや保存食を備蓄することが、当時の賢い主婦の姿であったように語られていました。それもすごく明るい口調で。実際それってかなり大変な労力じゃないですか。シェルターを掘って、保存食とゲームって。でも非常事態にシェルターに入って家族でゲームして美味しいものを食べたら、それも素敵な思い出になるよねということです。それって「#おうち夏祭り」と何も変わらないんですよ、本質が。
それはもちろん日本でも。太平洋戦争の戦時下が舞台の小説を書くときに当時発行された雑誌をいっぱい読んだのですが、「防空頭巾をかわいく仕上げる方法」などと提案する記事があるんですよね。斎藤美奈子さんの『戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る』にも、「ヒエとアワもちょっとの工夫でこんなに美味しくなる」といった料理記事が戦時下の婦人雑誌にあると書かれていました。
さきほどお話したとおり、私はすぐ実践しようとするタイプなのですが、やったあとにふと我に返るんです。足りない分を個人の大車輪の働きで埋め合わせないといけない、この状況はなんなんだろうと。私は楽しく生きたいだけなのにと。
――シリアスにしていたくはないけれど、便乗してしまうと権力側に取り込まれているような気持ちになってしまうんですよね。
その繰り返しですね。値上げの波のなかで節約特集などをやっているのをみても同じことを思います。節約自体はした方がいいことですが、個人の工夫で補うということがあまりにもいいことにされすぎてはいないかと。
2022.10.21(金)
文=綿貫大介
写真=平松市聖