教室に帰ってからそれをぜんぶカタカナで書いて、「これ、なんて読む?」なんてやって、「あ、それ○○ちゃんが言ってたやつだ!」なんてなったら、カタカナの読み方を覚えちゃってね。そういうふうにして自然というものがこんなにリズミカルに聞こえてくるんだとわかったとたん、自然をもっと聞こうとする耳が育ちますよね。耳を澄ますなんてことが始まったとたんに、自然と響き合う準備ができますよね。

 これが自然を最大限に生かした教育法というか、森のようちえんなんだと思ってます。そうだとしたら、現代社会における森のようちえんの役割は、太陽や風や空気やそういう外なる自然と、人間の中の内なる自然を、命の世界のレベルで出会わせることなんだと思うんです。外なる自然と共鳴できる内なる自然をもっている人間を育てる教育の総称を「森のようちえん」ととらえればいいと私は考えています。

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森のようちえんが現代人のマインドセットを変える!?

 環境倫理学者のJ・ベアード・キャリコットは著書『地球の洞察』で、近代西洋的人間中心主義から世界各地の伝統的環境思想をふまえた全体論 (ホーリズム)へのパラダイムシフトの必要性を訴えた。汐見さんが言う、自分のなかの内なる自然が外の自然と共鳴するというのも、近代以降に自然から切り離されていた自分たちをもういちど自然という全体のなかに戻すことだといえる。

 もともと明治以前の日本語では、自分と自然が一体化した状態を「自然(じねん)」と呼んだ。だから私たちは、盆栽に宇宙を感じることができる。「古池や蛙飛び込む水の音」と詠むだけで、宇宙の摂理と同化できる。それがいつしか、人間と区別された西洋的な意味での「Nature」を「自然(しぜん)」と呼ぶようになったのだ。

 ただし、子どもと自然を命の世界のレベルで出会わせるには、ただ自然のなかに連れて行くだけでは弱い。子どもの中の内なる自然が外なる自然との共鳴を始めたときにまわりの大人がどれだけそれに気づいてやれるかが大きな鍵であることは、海洋生物学者のレイチェル・カーソンが遺作『センス・オブ・ワンダー』で述べたとおり。逆にそういう大人が少なくとも一人、子どもの近くにいるのであれば、都会にある小さな自然のなかでも、出会いは可能だ。

2021.11.05(金)
文=おおた としまさ