「見える人」は常に孤独なのである。

目に見えて起こる超常現象

 浦河の丘の上の家が建ち上り、家財道具を納めて間もないある夜、水道の口もない場所で水が流れ出る音がしたり、砂利道などないのに家の外で砂利の上を歩き廻る音が聞えたことからそれは始まった。しかしその時は、誰もがそうであるように、私たちは「空耳」「気のせい」でことをすませていた。ほかにも異常が起っていたのだろうが多分、気がつかなかったのだろう。

©iStock.com
©iStock.com

 次の年から目に見えて超常現象が起るようになった。

 東京から送った書籍の段ボール8個を玄関に積んでおいたのが、そのうち1個だけ忽然と消えていたり(私の家へ来るには700メートルの坂道を上らなければならないので、よほど暇な人でない限り車を使う。もし泥棒ならばどうせ車で来た以上は2、3個は持って行くだろう)夜になると屋根の上をゆっくり人が歩く音がしたり、つけておいた電燈が消えていたり、かと思うとつけた覚えもないのについていたり、これでもか、これでもわからんか、というようにつづけざまに異常が起きるともう錯覚だなどとはいっていられなくなった。

 

死後を考えることは無智蒙昧?

 秋になって東京へ帰り、講演旅行に出ると、旅先のホテルで夜通し怪奇音に悩まされた。部屋を出る時に消したことを確認したルームライトが戻ってみると点っている。ついには東京の自宅でも絶えずラップ音が鳴っているという有さまである。50歳にして突然、私に潜在していた霊媒体質が出てきたのである。

庭で犬とたわむれる佐藤愛子さん  ©文藝春秋
庭で犬とたわむれる佐藤愛子さん  ©文藝春秋

 5年ばかり前、私はその体験記を1冊の本にしたことがあるが、その時、所謂知識人と目されている人たちから笑を受けたばかりか、あるお医者さんのごときは怒り心頭に発したという様子で私の無智蒙昧を罵倒された。

 なにもそう憤激するほどのことではない。革命を起して国を転覆させようという話ではないのだ。ただ人間は死んだら無になると思うことは間違いで、死ねば肉体はただのヌケ殻、焼けば灰になるだけだが、魂だけは残るらしい。

2021.02.15(月)
文=佐藤 愛子