科学がすべてだと思い決めることこそ無智傲慢

「何といわれても私には見えるもの」

 というほか、宜保さんに言葉はないだろう。宜保さんには見える(聞える)事実があり大槻教授には見えない(聞えない)という現実があるだけだ。なぜ見えるのか、それは何なんだ、説明しろ、といわれても答えようがない。見えるものは見える、というしかないのである。

 例えば縄文時代などではすべての人間が霊や妖怪を見ていたのにちがいない。文明の進歩と共に人間のその能力が磨滅した。医学が進歩するにつれて本来人間に備わっていた自然治癒力が磨滅したように。それが今も残っている人と消えた人がいるだけのことなのである。

©iStock.com
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 残っている方は消えた方を批判しない。なのに消えた方は残っている方を批判する。科学がすべてだと思い決めるのはそれこそ無智傲慢というものではないか。

「死」についての考えの変化

 以上のような次第で、私は死を50歳前とは違う視点で考えるようになった。私が経験したもろもろの現象は苦しむ死者のメッセージである。肉体は滅んでも魂は存在する。昔から芝居の幽霊は「うらめしやー」といって出て来るが、これは生前の怨みの意識が死んでもまだ残っているということだ。

 怨み・憎しみ・執着・口惜しさ・心残り・後悔・恋慕などの強い情念を持ったまま死ぬと、行くところへ行けない―つまり霊界の上層に行けずに苦しみつづけなければならないらしいことが私にはわかったのである。

 死後は無になると考えていた人が交通事故で即死した。彼の肉体は死ぬ。それと同時に魂は肉体から離れて存在しつづける。

 人が歩いたり車が走ったりするのが魂には見えているから、自分が死んだとは思わない(何しろ彼は死んだら無になると思っているのだから)。しかし現界の人には彼の魂は見えないから、誰も相手にしてくれない。わけがわからぬままに彼はさまよい苦しみ、自分の死んだ場所に居つづける。寂しさ苦しさのあまり仲間を求め、誰かを引き寄せて事故死させる。

「この前もここで死んだ人がいるんだよ。あそこはカーブの見通しが悪いからねえ」

 と人々はいい合って、「危険、注意」という札を立てるのである。だが立札よりもその地縛霊に向って、あなたはもう死んだんですよ、死後は無ではないんだよ、だから行くべき所へ早く行きなさい、と教えることの方が必要なのである。

 自殺をする人がいる。生きることの辛さ苦しさに疲れ、何もかもなくなってしまう無の世界へ行きたいと思って死を選ぶ。しかし死んでも何もかもなくなるというわけにはいかないのである。彼が引きずっている情念が浄化されない限り苦しみはつづく。苦しくてたまらないので、もう一度死に直そうとする。そこへ霊媒体質の人がやって来ると、その人に憑依して電車に飛び込ませる。一緒にもう一度死ぬつもりなのである。

 

 自殺者の霊は二人になって次の犠牲者を引っぱる。それが増えて地縛霊団となり、「魔の踏切」「魔の淵」などといわれるようになっていくということである。

 テレビの心霊番組はおどろおどろしい音楽や、若いタレントの仰々しい悲鳴などで人を白けさせるが、霊を単なる好奇心で見せ物にするものではない、と心霊研究の泰斗は憤慨しておられた。

 キャア、コワイ、と叫んでいるあの若い人たちも、うかうか生きていると、やがていつか自分が死んだ時、人からキャア、コワイ、といわれる霊になるかもしれない。ひとごとではない、我々はみな、その可能性を持って生きているのである。

 そこで大切になってくることはこの世に生きている間の、日頃の心構えだ。科学万能の現代に生きているうちに、我々は死後は無だと手軽に考え、神の存在を無視するようになった。

佐藤愛子さん  ©文藝春秋
佐藤愛子さん  ©文藝春秋

 現代人が信じるのは科学、それを産み出す人間の頭脳と力だけになりつつある。人の死後という大切な問題はエンターテインメント化されるか黙殺されるかのどちらかで、神を思い出す時は入学や出産を心配する時だけになった。神社仏閣への参拝は必ずしも信仰心からではなく観光を兼ねるようになった。

2021.02.15(月)
文=佐藤 愛子