『何度でも食べたい。あんこの本』(文春文庫)の発売を記念して、こちらの本に掲載されているあんこ名店から4軒をご紹介。小豆の旨さが詰まった菓子と、それを支える職人たちの物語を、著者の姜尚美さんが綴ります。

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あんこはみずみずしい

◆松壽軒のあんころ餅
 (京都市・松原大和大路)

夏の土用の入りの日に作られるみずみずしい「あんころ餅」。おいしいあんこはひと目でわかる。見ただけで喉が鳴る。[松壽軒]のあんこは、粒子のひとつひとつに砂糖の旨みがしみこんで、ひたひた音をたてて潤っている感じがする。ここのお菓子が大好きなある人は、「ジューシーなあんこ」と言っていた。

 京都・松原通にある[松壽軒(しょうじゅけん)]を知ったのは、平成12年(2000)の秋のことだ。あるお寺の住職さんが、この店の和菓子を手放しで褒めながら薦めてくれたのに興味がわき、雑誌の取材をお願いしたのが最初だった。

 取材のテーマは、秋の京菓子。[松壽軒]は、予約注文分のみお菓子を作る“上生菓子”の店であること。上生菓子とは、茶会の趣旨を汲んで作る、鮮度と意匠が命のお菓子であること。お客さんに手渡す時に一番おいしい状態になっているよう、受け取り時間から必要な時間をさかのぼって作り始めること。主役のお茶より目立たぬよう、食べ手の銘をつける楽しみを奪わぬよう、色や形を抽象的かつシンプルにするのが京菓子であること──。ご主人の田治康博(たじ やすひろ)さんに京菓子のイロハを教わり、「山路 (やまみち)」「よわい草」という銘の“こなし”を撮影して取材は終わった。

 その後だ。田治さんが、よかったらどうぞ、と言って、その2つのこなしを勧めてくださったのは。

 汗がたらりと背中を流れる。こなしというものをご存じだろうか。こしあんにつなぎの小麦粉を混ぜ、蒸して練ったお菓子。見た目、あんこそのもの。「一時避難場所」の、餅も、栗も、どら焼きの皮も見当たらない。

 そう。私はその頃、あんこが苦手だった。特に上生菓子は私にとって、見たり聞いたりするものではあっても、食べるものではなかった。お茶なしでは飲み下せないあのねっとり感。砂糖が貴重だった頃をいまだに引きずっているようなあの甘さ。どこから食べてもどこまで食べても代わり映えのしない小豆と砂糖のカタマリ──。

 食べきれるだろうか。ひと息吸って、黒文字を入れた。ああ、これだ。口中にまとわりつくこの感じ。次は甘さでこめかみが痛くなってくるぞ。お茶は、お茶はどこだ。手が湯のみを探したその瞬間。……あれ? なんだこれ。うわあ。

「みずみずしい」

 思わず声が出た。あんこの粒子ひとつひとつが、しっとりと水分をたたえているのがわかる。口に含んでならすと、一瞬あんこが抵抗するが、次の瞬間、豆と砂糖の素朴な風味がふわーっとほどけるように舌の上で広がっていく。

 おいしい。あんこって、こんなにおいしいものだったのか。

 あんこ元年。この日を境に、私のあんこを知る旅は始まった。

2018.03.20(火)
文=姜 尚美
撮影=齋藤圭吾