ここのあんこはなぜみずみずしいのか

懐中しるこの粉末あんを固める木型。模様は、夏から秋まで使える、流水、モミジに光悦垣。餅皮を割って椀に入れ、湯を注ぐまでの数秒間だけ眺めることができる景色だ。「100人に1人、気づいてくれはったらええ方かな」と田治さん。

「あんこがみずみずしい理由? むつかしいこと聞かはるなぁ……。まず小豆を火にかけて炊きますね。すると豆の細胞がバラバラになります。その時、細胞に穴があいたらあかん。穴があくと水分が漏れるでしょう。すると、すぐ乾くあんこになってしまうんです。でもそれだけじゃない。食品学とか細胞学の話からせんと……」

 こなしを食べた10年後。この『あんこの本』が実現することになり、再び取材に訪れた[松壽軒]。ここのあんこはなぜみずみずしいのですか、と今回一番聞きたかった質問を投げたら、いきなり細胞に穴があく話になってしまった。

「むつかしいでしょ。これはもう口ではなかなか言えへん。同じあんこの形をしてても、100の店があったら100通りの味になる。同時に、最中(もなか)、きんとん、薯蕷(じょうよ)、みんなあんこの炊き方が違う。知らん人にとったら、もう色々やな、となる。だから分析は専門家に任した方がいいんちゃいますか」

 あんこを知る旅は、早くも暗礁に乗り上げてしまった。

 もちろん、今回初めてわかったこともある。[松壽軒]の粒あんには丹波大納言小豆、こしあんには小粒の丹波大納言小豆と十勝産小豆が使われていること。白あん用の白小豆(しろあずき)は、黒くてコクのある備中(びっちゅう)産より、白くてあっさりした丹波産。いずれも高級かつ上質な豆ばかりだ。水については「水道代より高くつく」ほど気を遣う。

 田治さんが「仮に手順を教えて作れるようになっても、お店で買う方が安くつくと思うよ」と言っていたのにもうなずける。

 その上、田治さんはお菓子の注文を「ひとつ」でも受ける。普通、上生菓子は1個だけの注文はできない。お菓子1個分のあんこを炊くことはできないからだ。だから5個とか10個といった数を頼む。

「でも、無理して5つ買ってもろて翌日に食べられるぐらいなら、ひとつ頼んですぐ食べてもろた方がいいからね。お菓子はとにかく、出来たてが一番うまいんです」

 いつまでもちますか、なんて台詞は禁物。食べる分だけ頼んでくれたらいいから、出来たてを食べて──。こんな気働きをしている店は、それほど多くないはずだ。

創業は昭和7年(1932)。建仁寺と高台寺の御用達、茶人の贔屓も多い店。そう聞かされていたから、初めて訪れた時は、おまん屋さんのようなたたずまいに驚いた。同じ商店街の並びには、食堂に鰻屋さん、果物屋さんにお肉屋さん。京都の人にとっては、上生菓子屋さんもそれらと同じ延長線上にある。

 そんな[松壽軒]のお菓子でぜひ推したいのが「あんころ餅」。注文できるのは7月下旬、夏の土用の入りの日の頃。京都ではこの時期に暑気払いで食べる風習がある。本来は「おまん屋さん」や「お餅屋さん」と呼ばれる、気どらない和菓子を作る店に並ぶものだが、田治さんはそのあたりも少し考え方が変わっている。

「上生菓子は上生菓子屋、朝生(あさなま)は餅屋、そういう区別はしたくないんです。どちらも京都に根づいているお菓子でしょう。むしろ素朴なお菓子なだけに際立ったものが要求されるぐらいですよ」

 「あんころ餅」のあんこはもちろん、上生菓子に使うもの。田治さん曰く、年に2、3回、「今日のは絶対うまいぞ」というあんこが出来る日があるそうだ。いつかきっと、それを味わってみたいと思う。

 あんこを知る旅は、まだ始まったばかりだ。

松壽軒(しょうじゅけん)
所在地 京都府京都市東山区松原通大和大路西入ル
電話番号 075-561-4030
営業時間 10:00~18:00
定休日 日・月曜
※生菓子は基本的に予約注文制。あんころ餅は夏の土用の入りの日前後(7/20頃)の販売で200円

姜 尚美(かん さんみ)
1974年京都生まれ、在住。「Meets Regional」「Lmagazine」などの雑誌編集部を経て、2007年よりフリーランスの編集者およびライター。他の著書に『京都の中華』(幻冬舎文庫)、共著に『京都の迷い方』(京阪神エルマガジン社)がある。

『何度でも食べたい。あんこの本』
みずみずしいあんこ、ふわふわのあんこ、ジャンクだけれど泣きたくなるあんこ……あんこが苦手だった著者が「手のひらを返すように」開眼し、京都、大阪をはじめ、全国36軒を訪ねたあんこを知る旅。小豆の旨さの活きる菓子と職人達の物語がぎゅっと詰まった一冊。7年半分の「あんこ日記」も特別収録。

姜 尚美・著
本体850円+税 文春文庫
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