【『名画を切り、名器を継ぐ─美術にみる愛蔵のかたち─』展】
たとえば「国宝」、あるいは「若冲」のような、何はともあれ「一言/一撃で伝わる」展覧会ではないのだが、その面白さ、すごさがわかるにつれ、じわじわと興奮の高まっていくダシの利いた展覧会が、この秋、相次いで開催される。まず先に開幕するのは、根津美術館での「名画を切り、名器を継ぐ─美術にみる愛蔵のかたち─」展だ。
日本の伝統的な鑑賞法「改変」、その背景とは
掛け軸として、あるいは屏風として美術館に展示された作品に対するとき、私たちは無意識のうちに、その姿が「制作当初のもの」だという前提に立って観ている。ところが、美術館に展示される日本美術のかなり多くが、「制作当初の姿から改変されている」としたら、どうだろう。たとえばもとは一巻の巻物だった和歌巻を、各歌ごとにバラバラに切り離す、あるいは大きな絵の一部をトリミングして掛け軸に仕立てているとしたら。こうした「改変」には、オリジナルが破損したためにやむを得ず修理として施された事例もあるが、鑑賞する側の創意工夫として手を入れたケースがほとんど。作家の創造性を尊重する近代的な「鑑賞」とは大違いで、暴挙もいいところ──に見えるかも知れないが、実はこれが日本の伝統的な鑑賞法だったのだ。
日本の美術作品の中で、もっともアグレッシブな改変を施されたのは「書」だという。なぜそうなったのか、学芸部長の松原茂さんによる「仮説」を交えた説明は、まるでミステリー小説のようだ。
歴史上、もっとも大規模かつ大胆な書画の改変を行ったことで知られるのは、なんといっても室町時代、足利将軍家のコレクションだ。こちらの詳細な解説は次章に譲るとして、歴代の足利将軍が蒐集した中国の書画工芸、すなわち唐物コレクションは「東山御物」と呼ばれ、近世以降の日本美術の規範となった。将軍家のコレクションは、足利義政の頃には流出し始め、やがて散逸してしまうのだが、美術史上最高の「ブランド品」として常に高額で取引され、明治時代にいたるまで時代ごとの権力者、富豪たちが入手を競い合った。
こうした中国の絵画や、禅僧の書(墨跡)のブランド化に先鞭を付けたのは、桃山時代の茶人たちだ。茶の湯の席を飾る掛物として織田信長や豊臣秀吉をはじめとする諸大名、また豪商たちは、積極的に唐絵や墨跡を用いた。もともと茶室の起源のひとつが、坐禅を組んで瞑想するための「禅室」にあったこと、また珠光から武野紹鷗、千利休にいたるわび茶の流れが、室町時代までの社交パーティから、より内省的な行為に変化しつつあったことなどから、茶会のコンセプトを明快に浮き上がらせる墨跡が、掛物の主流になっていったのだ。そして利休によって茶室の草庵化が進み、床の間が小さくなるにつれ、そのサイズに合わせて掛物を切断したり分割したり、ということも、日常的に行われるようになったらしい。
こうした墨跡(漢字)中心の茶の湯の席に、かなで書かれた掛物、特に和歌の懐紙(宮中の歌会などで詠進する際に書かれたフォーマルな形式のもの)や、古筆切(和歌巻の断簡など)が採り入れられるようになるのは、江戸時代初期以降のこと。読み下すのも困難な墨跡と違い、歌の中に豊かな情感や季節の景物が読み込まれ、料紙も見どころになるというので、茶人たちから好まれた。
伝承の上では、初めて茶室に歌切を掛けたのは利休の師・紹鷗だとされているが、松原さんの仮説は違う。公家たちが武家に文化的に対抗するための、ひとつの「戦略」だったのではないか、というのだ。
公家衆が企てた、茶の湯の世界の新しい価値
室町時代の天皇家や公家たちは経済的に疲弊し、高価で稀少な唐物を手に入れる余裕を持たなかった。だが彼らの蔵にはまだ、平安時代以来培ってきた和歌文化の粋である、歌書が残っている。『源氏物語』のような長尺のテキストの一部を切り取って、意味を通じさせるのは難しいが、和歌なら一首31文字で完結するため、細かい断簡にするにも適している。長い間、巻物や冊子、あるいは未表具の「まくり」の状態で鑑賞されてきた古筆を、唐物の書画と同じように分断して掛物にすれば、茶席での鑑賞に耐えるものになるだろうと、誰かが思い至ったのだ。こうした和歌の断簡を掛物として鑑賞した例は、文献上、1503年まで遡るという。
武家の茶の湯が墨跡なら、公家の茶の湯は古筆切だ──と、公家がプロデュースして創り出した、茶の湯の世界の新しい価値が古筆切だったのではないか。実際、公家の茶席に歌切が登場する例は多く、やがて武家や町衆の茶の湯にも普及していった。その契機になったのは、蔵の中に眠っていた先祖伝来の歌書に、新しい経済的な価値を与え、疲弊するばかりだった公家を立て直そうという、近衛前久や烏丸光広ら、武家との交わりの深かった公家衆による企てがあったのではないか。松原さんはそう考えている。
2014.09.27(土)
文=橋本麻里