茶の湯と言えば判で捺したように「千利休」に終始していた世間で、「織部」といえば「へうげもの」と、打てば響くように返って来るようになったのは、山田芳裕による人気コミック『へうげもの』のヒットあってのこと。「セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と『宗湛日記』(安土桃山時代に活躍した博多の豪商・神谷宗湛が残した茶会記)に記された歪んだ沓茶碗と共に、作為をこれでもかと押し出した古田織部の好みは、若い世代にも少なからぬ支持を得ている。だが実のところ、古田織部という茶人の名、また織部焼という焼きものを指すものとして使われる「織部」という語は完全に重なるわけではなく、両者の関係には謎に包まれた部分が多い。

《古田織部座像》 名古屋城
国宝《志野茶碗 銘 卯花墻》三井記念美術館 (展示期間9月6日~15日)
《黒織部茶碗》 梅澤記念館

 織部は元は土岐氏の家臣だったが、織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えて活躍した。利休と交流を持つようになったのがいつからか、正確にはわからないが、天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀を、秀吉が滅ぼした「山崎の合戦」直後、利休の書簡に織部の名が見えている。また、当時の名だたる茶人たちが、自分の出席した茶事の詳細を記録した『茶会記』が残る中に、織部の名が初めて登場するのが天正11年であることなどから、茶の湯の世界に織部が関わるようになるのは、天正10~11年頃からと考えてよさそうだ。

 利休が秀吉に切腹を命じられたのが天正19年(1591)だから、両者の交流は10年前後。決して長いとは言えない時間の中で、どのような交わりをもったのか、織部は利休から茶の湯の手ほどきを受け、後に「利休七哲」に数えられる高弟となった。自刃を命じられた後、死を覚悟して堺へ下る利休を、細川三斎とただ2人、淀の舟本から見送ったエピソードは、織部の剛気と師への敬慕の念の深さを物語っている。

重要文化財《黒織部茶碗 銘 冬枯》徳川美術館 (C)徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom
《竹茶杓 銘 泪 千利休作》徳川美術館 (展示期間9月11日~15日) (C)徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom
《肩衝茶人 銘 勢高》頴川美術館

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2014.08.30(土)
文=橋本麻里