伯父夫妻は「とても良い人」だった。寛さんは俳句を詠み、サイドカーつきのオートバイに乗る多趣味な人でもあった。
やなせさんは弟・千尋さんと一緒にシーソーやチャンバラをして遊んだようだ。
そんなある日、ライオンの石像を巡る騒動が起きた。
やなせさんが暮らしていた柳瀬医院の向かいには「高橋石材店」があり、親方と職人がいた。
『高知新聞』の連載『人生なんて夢だけど』には以下のように記している。
或(あ)る日親方が、墓石じゃなくて妙なものを彫り始めました。ぼくら子どもは見物しながら興味津々。
「おんちゃん、何を彫りゆうが?」
「これは石のライオンじゃが。腕を見込まれてライオンを頼まれたがぜよ」
『高知新聞』に寄稿した別の連載『オイドル絵っせい』にも次のようなくだりがある。
ある日、石屋に獅子(しし)を彫ってくれという註文(ちゅうもん)が舞いこんだ。
石屋の親方はよろこんだ。
「今度は獅子の彫刻をするきにねえ」
といって自慢した。
親方は写真をたよりにライオンを彫りあげた。一頭彫りあげたので客に見せた。
客は彫りあげられたライオンを見て仰天した。
「ありゃーこれはライオンじゃが」
「おまん、獅子を彫れと註文したきに獅子を彫ったがやぜ」
「獅子というたがは神社の唐獅子ぜよ」
「唐獅子なら唐獅子とちゃんといわんと解らんじゃいか」
二人はつかみあいの喧嘩(けんか)になった。
少し補足しておきたい。依頼主は神社の「狛犬」を彫ってもらいたくて、「獅子」を注文した。が、「獅子」はライオンのことも指す。「唐獅子」もライオンのことを言い、狛犬を指す地方もある。かなりややこしい。親方が間違ったのは仕方なかったのかもしれない。
なぜ柳瀬医院の跡地に残されたのか
1体しかなかったのは、一つ彫ったところで間違いが判明したからだ。

では、なぜ柳瀬医院の跡地に残されたのか。
依頼を間違えたと判明した翌日、親方は弟子に石像を担がせて、医院の庭に運び込んだ。
「ヤナイセ先生すまんけんどこの獅子をここへ置かしとうせ。あしのはじめての彫刻じゃきに、叩き割るのも惜しいがよ」(『オイドル絵っせい』)
やなせさんが後免野田小学校のPTA会報に寄せた原稿には「モッコにかつがれたライオンが我家にやってきた日のことは昨日のことのように鮮明におぼえています」とある。モッコとは、重い物を吊り下げるための網状の包みのことだ。
2025.07.14(月)
文=葉上太郎