「やなせさんと言えば、住んでいた柳瀬医院の跡地にライオンの石像がある」。そう思い出した山島少年は担任教諭に伝えた。

 これが、その後の南国市に極めて重大な影響を及ぼすことになろうとは、当時の山島少年は意識さえしていなかった。

子供達がライオンを“発見”するまでは誰も関心を持っていなかった

 クラスメイトの徳久文彬(とくひさ・ふみあき)さん(33)は、山島少年の「知らせ」を受け、皆で見に行ったのを覚えている。同学年の男子は6人。特に山島さんとは誕生日が近く、家も離れていなかったので仲が良かった。家を行き来して遊んでいたが、それでも「ライオンの石像があるとは知りませんでした」と文彬さんは話す。

 文彬さんの父・徳久衛(とくひさ・まもる)さん(64)も「息子から聞いて見に行った時には、木が何本かあるだけの更地でした。ライオンの石像はポツンと1体残っていて、子供達が見つけるまでは誰も関心を持っていませんでした。石像があることさえ知らない人が多かったと思います」と振り返る。

 どうして空き地にライオンの石像が残されているのか。子供達が調べても分からなかったようだ。

「そこで担任が夏休みに『皆でやなせ先生に手紙を書いてみよう』と言い出したのです」と徳久さんが記憶をたぐる。山島少年や文彬少年が書いた手紙は東京のやなせさんの拠点「やなせスタジオ」に送られた。

 すると、返事があった。

「どのような形の返事だったのか、小学校に資料が残っていないので分かりません」と徳久衛さんは話す。ただ、やなせさんには大事な石像だったようだ。これを理解するには、やなせさんの幼少年時代にさかのぼらなければならない。少し長くなるが、書き残した文章などから追いかけてみたい。

 やなせさんの父清さんは高知県南国市の隣の香美市の出身だ。東京で働いていたため、やなせさんもごく幼い時は東京で過ごした。ところが、清さんは新聞社の特派員として赴任した中国で客死してしまう。一家の生活は暗転した。やなせさんは母や母方の祖母と一緒に高知市内に間借りして暮らし、2歳下の弟・千尋さんは柳瀬医院を開いていた父の兄・寛さんの養子になった。ちなみに柳瀬は「やなせ」ではなく、「やないせ」と呼んだのだという。

 柳瀬医院は内科・小児科が専門で、現在の南国市にあった。戦後の市町村合併で市になる前の「後免(ごめん)町」である。

2025.07.14(月)
文=葉上太郎