前週に第二次世界大戦が終結し、6月23日の第13週から新たな時代に突入した、NHK連続テレビ小説「あんぱん」。24日放送の回では、番組のモデルとなったやなせたかしさんの弟「千尋」が戦死したことが明らかになりました。

 史実では、海軍予備学生に志願した千尋さんは訓練を受けたあと、駆逐艦・呉竹(くれたけ)の水測室に配属。1944年12月30日、千尋さんを乗せた呉竹が、バシー海峡で米潜水艦レザーバックの雷撃を受け沈没し、千尋さんは助からなかったといいます。

 そんな千尋さんに対するやなせさんの思いとはどのようなものだったのか――。ノンフィクション作家の梯久美子さんによる評伝やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく(文春文庫)では、千尋さんの人柄や、やなせさんとの兄弟愛を紹介しています。一部を抜粋して掲載します。

◆◆◆

「兄さんはきっと偉くなる」

 学生時代の仲間たちの写真を貼った嵩のアルバムの中に、京都帝大時代の千尋が実母の登喜子と写真館で撮った写真が貼られている。そこには、次のような文章が添えられている。

 ぼくのたった一人の弟は
 美少年です
 少し顔が長すぎるが
 なかなか写真でもきりりとしてるでしょう
 白いマフラーは野暮ったいが
 帝大生というものは余りお洒落ではありません
 母ちゃんと一緒に京都で撮った写真です
 母ちゃん旅でやつれています

 弟は今 海軍予備学生
 きりりとした短剣姿で立派だそうです
 ぼくも一眼みたいのですが
 弟は美少年でも女の人には余りモテません
 色気がないからです
 無作法で礼儀を知らぬからです
 女給さんと話すのにもむっつり難しい事を言います
 斗酒(としゅ)なお辞せず
 ヴァレリイと三好達治のファン
 優しい詩を作ります

 この弟にしてこの兄あり
 兄貴の小生は恥しい
 ああ 口に芸術を唱えながら
 一向に技倆(ぎりょう)これに伴わず
 親類一同 嵩さんにも困ったもんだ
 見ていろ今に偉くなるぞと
 心中やきもき
 たった一人の弟は
「兄さんはきっと偉くなる人だ」
 ああ有難う
 一生懸命やるよ
 負けるものか

 これを書いたときの嵩は中国に渡る前の二十代前半、千尋は海軍予備学生になったばかりである。嵩は青年期を迎えようとする弟の姿を愛情をこめて綴(つづ)っている。

 伯父の病院を継ぐ道を選ばなかった千尋は、旧制高校から帝大法学部という当時のエリートコースを歩み、文武両道のバンカラな青春を謳歌した。「斗酒なお辞せず」(一斗の酒も断らない)と嵩が書いているように酒が強かったが、友人たちと議論ばかりしていて、女性に対しては奥手だった。

 幼少時から心中に屈託をかかえ、長じても親類から何かにつけて心配される存在だった自分とちがって、千尋は一族の輝く星だと嵩は思っていた。その千尋が、兄さんこそ偉くなる人だと言う。

「たった一人の弟」という表現がこの詩には二度出てくるが、嵩にとって千尋は、幼くして生みの親と別れた境遇をともに生きた、かけがえのない存在だった。その千尋が言ってくれた言葉は嵩を力づけた。

 千尋が海軍予備学生として横須賀第二海兵団で基礎教育を受けていたころ、小倉の部隊にいた嵩に書き送った葉書がある。消印は昭和十八年十二月二十九日。戦死する一年前である。そこにはこんな一節がある。

「俺は兄貴の外に親身になって慰めてくれる人がいない。それだけに一寸(ちょっと)した慰めの言葉でお袋たちがどんなに嬉しがるかがわかる様な気がする」

 お袋たちというのは、育ての母である伯母のキミ、そして実母の登喜子のことだろうか。登喜子も再婚相手の男性に先立たれ、亡夫が遺した東京の家に住んでいた。

 葉書の文面はこう続く。

「皆一人ぼっちで淋しい人達ばかりだから手紙や一緒にいる時だけでも俺だけはしっかりした世話役が出来る様な格好をしていなけりゃならない。その実、俺もやはり子供の時の様に抱いてあやしてねかしつけてくれる人が欲しいのだが。一人前の男になった以上、之(これ)も仕方がない。兄貴は誰にも遠慮せずに甘えられるから羨しいと思うのはひがみかな」

 柳瀬家を支えなければという責任感の裏側に、さびしさと心細さがあったことがわかる。子どものころのように抱いてあやしてくれる人が欲しいというのは、嵩だけに打ち明けることのできた正直な思いだったに違いない。

 大学時代に一緒に写った写真があることから、千尋は実母に会う機会があったことがわかる。だが、甘えることはできなかったのだろう。東京での学生時代、嵩はときどき母に会っていた。母に甘えられる兄をうらやましく思う気持ちは、三好達治の詩集に父親の写真を隠していた中学生のころから変わっていなかったのだ。

やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく(文春文庫 か 68-3)

定価 770円(税込)
文藝春秋
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)

2025.07.03(木)
文=「本の話」編集部