「じゃあ、ここを出て、ほかの部屋を探してみたら? 探しているうちに思い出すかもしれない。考えていても思い出せないけど、その場所に行ったら思い出すこともよくあるでしょう?」

 彼女に言われ、もっともだと思う。なにかを探していて、移動するうちになにを探していたか忘れてしまう。でももとの場所に戻ったとたん、それがなんだったか思い出す。たしかにそういうことはよくある。

 この人、ボケているわけじゃないのかもしれない。俺がだれかわかっているようには見えない。なのに俺が家にいることを疑問に思っていない。それ自体がおかしなことではあるが、いまの話には筋が通っている。

「そうですね、じゃあ、そうします」

「そうね、それがいい」

 女性はにっこり笑って、チョコの箱の蓋を閉じる。そのうしろに木の扉があった。ほかは大きな窓と壁しかないから、ほかの部屋に行くにはあの扉を出るということなんだろう。

「チョコレート、ありがとうございます。とてもおいしかったです」

 俺はそう言って扉に向かう。

「よかった。またいつでも食べに来てね」

 女性は微笑んでうなずく。

 扉を開けて外に出ると、広い廊下がのびていた。廊下の両側に扉がたくさんならんでいる。これはほんとに家なのか? ちょっと広すぎないか。ここに住んでいる人がいるとしたら相当な金持ち。だが、自分がそんな金持ちだとは思えない。

 じゃあ、ここは俺の家じゃないのか? もう一度女性のいる部屋に戻って訊いてみようかと思ったが、そこには出てきたはずの扉がない。どういう仕組みかわからないが、戻れなくなってしまった。前に進むしかないらしい。

 あきらめて廊下を歩きはじめる。扉はいくつもならんでいて、そのうちのどれを開ければいいのかよくわからない。決めきれず、とりあえず先に進んだ。だれもいない。どこでもいいから部屋にはいれば、さっきみたいにだれかと会えるのか。

 そんなことを思いながら歩いているうちに、目の前がぼやけてくる。靄が立ち込めていた。なにかが動く気配がして、足元を見るとなにかが揺れている。

2025.07.02(水)