「俺、才能ないんじゃないか?」「結果、残さなきゃ!」“こじらせ男子”だった古舘佑太郎(34)を変えた“友人ミュージシャンの言葉”〉から続く

「今ではもうめっちゃ仲良し」と語る古舘佑太郎がミュージシャンとして活動を始めた時、今のような良好な親子関係は想像できなかったという。拗らせていた学生時代、そして父親へのまなざしが変化する日々を尋ねた。(全3回の2回目/#1#3を読む)

◆◆◆

有名な父親の存在が“目の上のたんこぶ”になってきた

――佑太郎さんと父・古舘伊知郎さんは、どんな関係性の親子だったのでしょうか?

古舘 幼い頃は、「時たま会うおじさん」みたいな存在でしたね。仕事で年中忙しい人だったので、四六時中触れ合うという距離感でもなかったし。幼い頃、一度だけ、一緒にキャッチボールをしたことがあったんですが……。お互いぎこちなくて、マジで気遣い合っていて。ボールが胸元から外れると、お互いに、「あ、ごめん!」みたいな。「俺が取りに行くよ」「いや俺が」みたいな、めちゃくちゃ気まずいキャッチボールだったんですよ。

――その後はどんなふうに?

古舘 これは偶然なんですけど、僕が13歳の誕生日を迎えた2004年の4月5日から父親の「報道ステーション」(テレビ朝日)が始まったんです。つまり、僕は中学の多感な時期に入っていくのと入れ替わりに、父親は報道に行った。毎日とても忙しそうですごくピリピリしていたし、僕は恋をしたり、音楽を聴いたり、本を読んだりする時期に入って、より父親から逸れていった。しかも、僕は音楽を始めると、「己は何ぞや?」と自分を拗らせて(苦笑)。その過程で自分を見つめたとき、有名な父親の存在が“目の上のたんこぶ”になってきた。今思うと、もう本当に拗らせていて青臭いんですけど、それまで全く嫌じゃなかった「古舘さんの息子」がどんどん嫌になってしまって。

――その頃のお父さんの反応は?

古舘 父親は父親で、僕が音楽をやりだしたことで、「まさかこっち側に来るんじゃないだろうな」と、ちょっと嫌な予感がしたのか、僕に否定を入れ始めるんですよ。「冷静に考えろ。うちの家系に音楽の才能があるなんて思うか?」とか、「お前、ちっちゃい頃にお姉ちゃんの真似してピアノ習ってもやってすぐにやめたじゃないか」とか。僕は僕で15、6の頃なので、それがもうめっちゃムカついて。

――ああ、それはたしかにムカつくかも(苦笑)。

古舘 そこから余計に「もう絶対に音楽で見返してやる」みたいな変なスイッチが入っちゃって。そのあたりから、微妙に気まずかった他人風の関係性が、もう若干、悪くなってしまって。

――でも、別にお父さんのコネでも何でもなく、自力でメジャーデビューを果たされて。

古舘 そう。それで天狗になって、余計父親に反発しちゃって。デビュー前、僕には“3B”というのがあったんです。バイトしていること、原付バイク乗ってること。バンドで頑張ってメジャーを目指していること。この3つは一切父親に言ってなかった。母親と姉ちゃんにも、「頼むからこの3Bはあの人に言わないでくれ」と頼んで。

2025.04.24(木)
文=内田正樹