わたしたちのことだ、と思って泣いた
平日午前中の地方の映画館は空いている。頼んだチュロスが焼き上がるのを待っていたら上映ぎりぎりになったけれど、そもそもこうしてふたりきりで映画を観るなんていつぶりだろう、子どもが生まれる直前の、『TENET』以来……? 『TENET』まじで全然わからなかったな……などと思いながら、ぼんやり予告編を眺めていた。
主人公とその夫は、結婚15年である。そして、ほとんどその結婚生活は破たんしてまさに離婚届を出そうとしている。そんな折、夫が事故で死ぬ。あることがきっかけで、ふたりが出会った15年前にタイムリープし、ふたりは再会する――、もう十分SNSの情報であらすじは知っていたはずなのに、序盤からぼろぼろ泣いてしまう。夫も同じように隣で泣いているであろうことは、なんとなく伝わった。鼻水でぐしょぐしょになって、けれど思いっきり洟をかめないのがつらい。拭ってもどんどん涙があふれてくる。わたしたちのことだ、と思って泣いて、でもこれは紛れもなく映画のなかのふたりだけの物語だ、と思ってさらに泣いた。
泣きながら、映画に教えられるまでもなく、ほんとうには全部わかっている。きっとすべては「いまを大切に」することなのだ。ああほんとうに、いまを大切にできたらどんなにいいだろう。あなたと一緒に生きている、このいまを。些細なやりとりや気遣いや思いやりを重ねて、重ねまくっていく地道な毎日それ自体が尊いのだと思えることができたらいい。でも、それがこんなにも難しい。
もしも自分や相手の最期があらかじめ定められていたならば、そしてそのことを(お互いか、どちらかが)知っていたならば、悔いのないように、相手にやさしく接することができるのは、じつは当たり前ではないか。けれど現実はけっしてそうではない。映画のなかのふたりとは違って、わたしたちの生活に、あらかじめ終わりは決められていない。いや、いつかはどちらかが死ぬと思えば終わりは必ずあるけれど、それがいつかはわからない。どんなふうに終わるのかもわからない。そんな怠惰な暮らしのなかで、お互いが寛容であり続けることは、おそらく不可能に近い。
生きることもそれと同じで、もちろんいつかは死ぬのだという事実がいまを光らせる、だからいまが大事と思うこともできるけれど、でもそのなんと、難しいことか。いまは光ったと思った矢先にすぐその輝きを失って、ふたりで同時に生活を光らせることなんてほんとうにほんとうに困難なことだと思う。よくある余命や闘病のラブストーリーの、ともすると「ああまたこれか感」は、翻って自分にはただ怠惰な日々がつづくばかりである、という現実の退屈さそのもので、その現実を背負って、わたしたち夫婦は飽きずにいがみあうのだ。
ずっと出会ったばかりの頃と同じ気持ちで好きでいられることなんて不可能で、お互いにほとんど努力を滲ませて絞り出す「好きだよ」にどれだけの力がいま、残っているのだろう。くっつき合うことも触れ合うことも嫌ではないけれど、わたしたちの「好きだよ」というのは、ほんとうのところ、いったいなんの確認なのだろう。
『ファーストキス』はあくまで夫婦ふたりの物語であったけれど、子どもがいればまた関係はガラッと変わるだろうし、現にわたしたちだってそうだった。子どもが生まれて以来、子の命を守るということが最大のミッションになったから、自分のなかに、恐らくこれまではなかった「殺気」が生じた。4歳にもなれば、新生児のときのような四六時中の心配や不安はさすがに和らいだとはいえ、いまでも夜中に大きな音がすると、ガバッと起き上がって子どもに何かあったかっ!? と一瞬気が動転するし(大抵トイレに立った夫が何かに躓いたとかそういうことで余計イラッとする)もしかすると、それまではあったかもしれないわたしの穏やかさやゆるさ、みたいなものはほとんどいま、夫からは特に見えなくなっているのかもしれない。ひとりの子どもという、予想を軽々超える手の負えなさ、待ったなしの育児の現場において、お互いが、お互いの前では見せなかったような浅薄さ、意地悪さ、無責任さ、そういうものをどうしても見せてしまうし、子育てしていなかったら発さなかった言葉というものがほんとうにたくさんある。「噛まないで!」「ここでおしっこしないで!」「ねえこれいまどういう状況!?」と毎日のように叫ぶだなんて、まったく思わなかった。わたしたちはさ、親になってもお互い「ママ・パパ」呼びはしないでおこうね、とだけ決めて、それはなんだかんだいまでも守っているけれど、それだけではかつてあったふたりの間の甘い雰囲気はまったく残らないということも知った。
2025.03.22(土)
文=堀静香