こうした印象が変わり始めたのは、二〇〇八年から一〇年にかけてインドの首都デリーで勤務したときのことだった。わたしは在インド日本大使館で、専門調査員という、研究者が在外公館の職員として館務に従事するとともに研究・調査を担当するポストに就いていた。そのなかでインド側の大学やシンクタンクの研究者、政府関係者とインド外交や国際情勢をめぐり意見交換をしたり議論を交わしたりしていると、カウティリヤの名前や『実利論』の内容に言及されることが時々あった。とりわけ、自国を中心に置き、その周囲に円環が幾重にも広がる「マンダラ的世界観」が話題に上ることが多かった。たしかにその視点でインド外交を見直すと、腑に落ちる点が少なくないように感じられたのだ。

 それをさらに強く実感することになったのは、この一〇年のことである。『実利論』からインド外交の真髄を読み取ろうとする研究プロジェクトが始まったのだ。主体となったのは、インドの防衛問題研究所(IDSA)(現在の名称は「マノーハル・パリカル防衛問題研究所」。略称はMP-IDSA)。国防省傘下で、外交・安全保障問題に関してインドを代表するシンクタンクのひとつと位置づけられている。二〇一四年四月九日にはIDSAで「カウティリヤ国際セミナー」が開かれ、インドだけではなく多くの国々から研究者が集結し、『実利論』の中身と現代的意義について議論が行われた。翌一五年には続編となる国際セミナーが開催されたほか、同研究所から関連書籍も刊行されており、関心の高さがうかがえる。

 インドの外交実務に携わる立場からも、『実利論』に言及されることが増えてきた。IDSAの国際セミナーでは、当時国家安全保障担当補佐官(NSA)を務めていたシヴシャンカル・メノン氏が基調演説を行い、『実利論』の重要性を強調していた。また、マンモーハン・シン政権期に外務次官のほか、原子力や気候変動担当特使を務めたシャム・サラン氏は、著書『How India Sees the World(インドは世界をどう見ているか)』〈未邦訳〉でカウティリヤについて論じている。「疑いなく、国家統治に関してインドでもっとも重要な書物である」というのがサラン氏の見立てだ。

2025.03.16(日)