と書くと、こう思う読者もいるだろう──『実利論』について知りたければ、この邦訳を読めば良いのではないか、と。たしかにそれはそうだ。しかし、そう簡単にはいかない。ひとつはボリュームである。岩波文庫版は前述したとおりだし、各種英語版はだいたい一巻本だが、ちょっとした辞書並みの分厚さになる。しかも図版等はいっさいなく、最初から最後までひたすら文章がつづく。これを読み通すのは相当な忍耐力が求められる。

 もうひとつは、時代背景についての理解だろう。「古代インド」と言われて、読者は何を思い浮かべるだろうか。もっとも知られているキーワードは、「インダス文明」にちがいない。乾いた大地にそびえ立つモエンジョ・ダーロの遺跡や神像といったイメージを思い浮かべるかもしれない。だが、ひとくちに古代インドと言っても、カバーする時間はかなり長い。インダス川流域に文明が栄えたのは、紀元前二六〇〇年頃から紀元前一八〇〇年頃までのことだ。仏教の創始者、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が活動していたのが紀元前六世紀頃。マウリヤ朝が成立するのはそこからさらに数百年後のことなのである。では当時のインドはどのような状況にあり、どうやってマウリヤ朝が成立したのか。それを成し遂げたチャンドラグプタ王、彼を宰相として補佐し、そのエッセンスを『実利論』に注いだとされるカウティリヤはいかなる人物だったのか。こうした部分を踏まえておかないと、せっかくのテキストが無味乾燥なものになってしまいかねない。

 より根本的には、『実利論』を知ることで何が得られるのか、という点がある。実はわたし自身も同じ問題に直面したことがあった。『実利論』を一通り読んだのはいいが、そこで論じられている内容が持つ意味の深いところまでは実感できなかったというのが正直な気持ちだった。古代インドにおける統治の要諦、と言えばたしかにもっともらしく感じられる。だが、それだけでは何が重要なのか、いまひとつ伝わってこない。

2025.03.16(日)