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 影絵作家の藤城清治さんは、2025年4月17日に101歳を迎えます。長きにわたる創作活動の原点はどこにあるのでしょうか。絵を描くことが好きだった幼少期、学徒動員に駆り出された学生時代、そして雑誌『暮しの手帖』での仕事など、影絵の道を切り開いた歩みをうかがいました。

別冊 暮しの手帖『100歳おめでとう 影絵作家 藤城清治』
『藤城清治 傑作選 魔女の赤い帽子』


慶應義塾の学びが創作の源となった

――さまざまな作品を制作してきた藤城先生ですが、その原点はどこにあるんでしょうか。

藤城 やっぱり学生の頃に美術部のパレットクラブに所属して、並行して児童文化研究会で人形劇を始めたのが土台だったね。

 僕は慶應義塾普通部(中学校)に入学したんだけど、油絵を教えてもらったり、版画のエッチングを作ったり。造形の先生が大工用具を揃えてくれてカンナをかけるとか、椅子や戸棚を作るとか、いろんなことをやらされたね。

 デッサンもしっかりとやって、さらに趣味的に人形を作っている感じだった。僕の根本的な部分にある創作の源は、そういう学校の学びが形作ったと言えるかもしれない。それで慶應義塾の創業者である福沢諭吉の独立自尊の精神が結びついたのかもしれないね。

――充実した学生生活だったのですね。

藤城 友達にも面白い子がいてね。パレットクラブで知り合った子は、幼稚舎から在籍していて、庭にアトリエを持っていた。仲良くなると、「なかなか手に入らない日本産の赤色の絵具だよ」と見せてくれたり。自転車に乗ってみんなでデッサンしに行くこともあったよ。うちの母屋の床の間で人形劇をやったりね。

人形劇は、小さな要素が集まって一つの宇宙を創る

――その頃から人形劇の魅力に気づいていたのですね。

藤城 人形劇は人間の10分の1くらいの大きさで、色んな人が関わるから面白いね。絵は一人でできるけど、人形劇は普通の演劇とも違うから。幕は横に開くのか、下から巻き上げるのか。音楽は美しい音とか雨が降る音とか。光はどう当てるとか。そういう一つ一つが相当大きな要素として、一つの小さな世界に命というか、世界、宇宙そのものを作っていく。

 しかも人形劇は子どもに見せるというだけじゃなくて、古いものから各国の人形までいろいろ種類があって、人形そのものの良さみたいなものがある。学生の頃は、よく各国の人形について調べたり、観たりすることもたくさんやったね。

 けれど1942年から学徒動員に駆り出されて、1カ月、2カ月と農家の畑で土木工事をするようになって、いろんな農家に泊まってね。高校の先生だけじゃなくて、大学教授も駆り出されてみんなであっちこっちへ行ったんだ。その時にフランス文学や歌舞伎の教授から、専門的な話を聞くのがとても面白かった。みんな正式な授業はないから、そういう話ばかりするんだよ。当時、30代くらいの教授だったと思うけどね。

2024.12.26(木)
文=ゆきどっぐ
写真=榎本麻美