この記事の連載
- 藤城清治さんインタビュー#1
- 藤城清治さんインタビュー#2
特攻平和館で見つけた友人の名前
――光さすメルヘンの世界を描いていた藤城先生ですが、80歳を過ぎた頃から、自らの戦争経験の蓋を開けられます。鹿児島県の知覧にある「知覧特攻平和館」では、慶應の同級生で親友だった「舟津一郎さん」の名前を見つけ涙されました。そして2016年に「平和の世界へ」という作品を制作されます。
藤城 僕も翌年には海軍予備学生に志願して、命がけ、というほどじゃないけど、いろいろあって。部下が少年兵だったから、一緒に人形劇をやったりもしたんだけどね。
――終戦後は、1947年に大学を卒業して、映画会社の東京興行(現・東京テアトル)に入社されます。
藤城 配属先は宣伝部で、テアトル銀座、銀座全線座の映画、パンフレットの編集を担当したんだけど、僕は何でも作るのがうまかったから、みんなに便利がられてね。でしゃばるタイプじゃなくて、どちらかというとくっついていくタイプだったから、余計使いやすかったんだと思う。
当時は日本で映画を作れるような状況じゃないから、どのアメリカ映画を配給するか試写をして決めるのが勝負でね。僕は最年少だったから、「若い子の意見を聞かせてほしい」とその試写によく連れていかれたんだ。社長とかごく少数の人しかいない場だったけどね。
2024.12.26(木)
文=ゆきどっぐ
写真=榎本麻美