この記事の連載

 戦争や気候変動、世界経済など不安なことが多い現代。既存の生き方では生きづらさを感じる人に、エッセイストの松浦弥太郎さんがおすすめするのは「エッセイストという生き方」です。自分の軸を作り、視点や考えを磨くことで、どんな人間になりたいかを考える方法がエッセイストのように生きることだと言います。

 「エッセイを書くことに救われてきた」と語る松浦弥太郎さんの著書『エッセイストのように生きる』より、一部を抜粋して紹介します。


検索に頼らず自分の答えを出す

 スマホと関連して、しっかりと見つめ直したいのが「検索」です。

 Googleで検索することが「ググる」という省略言葉になっているように、若者から年輩者まで、多くの人の生活に定着した動作でしょう。ChatGPTやSNSでのサーチ機能も同じですね。

「○○ってどう説明されているんだろう」

「この映画、みんなはどう言ってるだろう」

「おいしいお店を探そう」

 こうした「知りたい欲求」が湧いたとき、検索を使えばたくさんの情報がかんたんに、一気に手に入ります。はじめは僕も「なんて便利なんだろう」と思っていました。

 でもいまは、ほとんど検索をしなくなりました。「○○とは?」と検索すれば答えが出てくることはわかっているけれど、だからこそ、しない。

 それがつまらないこと、自分を豊かにしないことだとわかったからです。

 たとえ検索して見つけたお店でおいしいごはんを食べられたとしても、それはただ提示された正解をなぞっただけの話です。

 「これが正解ですよ」と言われ、その答え合わせをしただけ。「自分の答え」ではないものに行動がコントロールされることは、はたしてしあわせなのでしょうか。

 そして多くの人が、だれかが用意した正解に乗っかることに満足して自分の答えを持つことをあきらめていたら……それはちょっと、こわいことではないかとも思います。

 僕はわからないことがあったら、まず「どうしたらわかるようになるだろう」と考えるところからはじめます。

 そして実際、人に聞いたり、いろいろな本を読んだり、そのことについてずっと考えたりして、自分なりの答えを見つけていく。

 それで「どうしてもわからない、お手上げだ」となったとき、はじめて検索してみます。でも、それはほんとうに「最後の手段」です。たいていのことは、最後の手段を使わずしてもわかります。

 いまは検索を「最初の手段」にしている方が多いですが、その順番を逆にしてみるだけで、一気に「遅く」考えられるはずです。

 しかも、人に聞いたり本を読んだりすることで、「知りたい」と思ったことの近くにあるさまざまな情報が自分の中に流れ込んでくる。紙の辞書を引くと、となりの言葉が目に入ってくるのと同じ感覚です。

 検索は最短距離で答えにたどり着けるけれど、最小限の情報しか得ることができません。それは少し、味気ないなと思います。思いがけない気づきを手にしたり、学びを得たりすることは、とてもたのしいことのはずです。

 いますぐ知らなくてはならないこと、たとえば命にかかわるようなこと以外は、時間をかけて理解していく。検索は、最後の手段にする。

 そのとき調べられなかったら忘れてしまうようなことは、放っておけばいいのです。結局は、そこまで知りたいことではなかったのですから。

2023.11.02(木)
文=松浦弥太郎