『夏のカレー』(日本文藝家協会 編)
『夏のカレー』(日本文藝家協会 編)

 日本文藝家協会・編の年間アンソロジーの最新刊『夏のカレー 現代の短篇小説ベストコレクション2024』をお届けする。二○二三年の一月から十二月までに、ウェブ雑誌を含む小説誌や出版社のPR誌などに掲載された短篇小説から、優れた作品を選出したものである。

 二○二三年は、新型コロナウイルス感染症が五類に指定されたため社会は表面的には元の状態を取り戻したように見えたが、コロナ禍自体が消えたわけではない。国内では政権与党の不正が次々と明らかになり、海外ではロシアのウクライナ侵攻が始まって一年を超えた一方、ハマスからの攻撃へのイスラエルの過剰な報復にアメリカが肩入れし、民主主義国家も権威主義国家もエゴと不公平をそれまで以上に剥き出しにするようになった。

 まことに不安な揺らぎに満ちた世相だが、無論、小説はそうした世相を反映するとは限らない。特に短篇小説は、枚数が少なく、描ける事柄も登場人物の数も限定されるため、身近な世界を描くことが多い。このアンソロジーの編纂委員として、一年間に発表される短篇小説の殆どに目を通しているけれども、大部分は身近な領域の物語である(本書はテーマ別のアンソロジーではないのだが、結果的に収録作は、家族のありようや、元同級生との関係を描いたものが多くなった)。

 しかし、善悪の基準がわからない、正しい価値観がわからない、人間の本質がわからない、どう生きればいいかわからない――そんな混沌の世において、小説は、ささやかながらもそのヒントを読者に授ける。たとえ枚数は少なくとも、そこには作家たちの大胆な空想と、魂を削るような思索が籠められている。それは、読者である私たちの空想や思索を刺激し、新たな価値観に目覚めさせるかも知れない。読書とはそんなスリリングな体験であることが、本書収録の十一篇からも窺える筈だ。

 

江國香織「下北沢の昼下り」(初出「小説新潮」一月号)

 語り手の「私」は、七十二歳の母や高校一年生の娘とともに下北沢のヴェトナム料理店を訪れている。「私」の妻は三度目の家出中だ。母と娘は年齢が大きく離れているが、まるで親友同士のように仲がいい。

2024.09.13(金)
文=千街 晶之(文芸評論家)