以降、百物語形式の連作小説はさまざまな作家によって試みられており、わが国の怪談文芸のひとつの流れを作っている。本題から逸れてしまうので詳しく立ち入ることはしないが、戦前では野村胡堂の『奇談クラブ』などの例があり、現代でも都筑道夫の『深夜倶楽部』、浅田次郎の「沙髙樓綺譚」シリーズ、宮部みゆきの「三島屋変調百物語」シリーズなどが書かれている。
それにしても作家たちはなぜ、百物語を好んで取り上げるのだろうか。ひとつにはオムニバス形式の短編を自然な形で成立させるために、便利な枠組みだという事情があるだろう。統一感を出しつつバラエティ豊かな短編集を作り上げるうえで、もってこいの形式なのだ。
加えて百物語には、あえて非日常に身を浸すことから生まれる楽しさがある。年齢も立場も異なる人々が一堂に会し、怪談に打ち興じるというのは、考えてみるとかなり特殊な状況だ。そこに加わることは忙しない日常からの逃避であり、非日常空間で出会った人々の間には親密なムードが漂う。学生時代の修学旅行の夜、声を潜めて怪談を語りあったあの楽しさを、紙上で追体験させてくれるのが百物語形式の物語なのだ。
百物語にまつわる記述がやや長くなってしまったが、本書もそうした怪談文芸の系譜上に位置する作品である。しかも従来の百物語小説にはなかった、著者独自の視点が盛りこまれており興趣が尽きない。では本書の特徴や独自性はどのあたりにあるのか。あらすじを辿りながら考えてみたい。
物語の主人公・平野屋清兵衛は、江戸の山城町にある料理茶屋・平野屋の七代目主人である。五十二歳で息子に店を譲り、現在は楽隠居の身の上だが、暇ができたことで死の恐怖を感じるようになる。人生五十年と言われていた時代、いつ死んでも不思議ではないのだ。しかしその病的な怯えは、清兵衛に取り憑いていた死神によって引き起こされていた。それを見抜いた幼馴染みの蝋燭問屋・伊勢屋甚助は、霊感で死神を追い払った後、清兵衛を「話の会」に誘う、というのが第一話「ひとつ灯せ」の前半である。
2024.09.01(日)
文=朝宮運河(文芸評論家)