『精選女性随筆集 石井好子 沢村貞子』(石井 好子 沢村 貞子 川上 弘美選)
『精選女性随筆集 石井好子 沢村貞子』(石井 好子 沢村 貞子 川上 弘美選)

 ずっしりと持ち重りする、苦みも甘みも凝縮された石井好子(一九二二―二〇一〇)の文章が本書には編まれている。その新鮮な驚きは、たとえば舞台に立つすがたに別の角度から、または異なる色合いのスポットライトが当たったとき、思いもかけず現れた(たたず)まいにこころを摑まれたときの高鳴りにも似ている。

 石井好子の文章を広く世に知らしめたのは、一九六三年に暮しの手帖社から刊行された『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』である。花森安治のすすめに応えて「暮しの手帖」に二年間執筆したエッセイをまとめた一冊で、舶来の料理の味わいや香りを自由闊達(かったつ)に描きだす筆致はたちまち読者を魅了、はるか彼方(かなた)の日本の空の下まで香ばしいオムレツのにおいが伝わってくるかのようだった。遠い外国の食卓が、それこそ隣の家のドアを開けるとすぐそこに。そんな日常的な親近感を抱かせたのである。素朴な発見や感動を書きながらも、けれん味がなく、自慢や自己顕示とも無縁の文章を読むとき、わたしたちは食卓で、台所で、むじゃきな笑顔を向けられたうれしさを受け取る。ただし、思わずつばを飲みこむバターたっぷりのオムレツ、ニース風サラダ、ポトフ、グラティネ、ヴィシソワーズ……かずかずの描写の背景には、独自の観察眼や分析がたっぷりと注ぎこまれている。そのおおもとは石井好子が自分自身に水をやり、みずから育ててきた意志、精神力。

『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』以前、はじめての著作は五五年、パリの下町暮らしの裏側を書いた『女ひとりの巴里ぐらし』である。その袖文を書いた三島由紀夫はこう表している。

 好子さんは自分のことを書くと、心のやさしい普通のお嬢さんにすぎないが、人のことを書くと、自分でも「意地悪」と言ってるやうに、すばらしい描写の才を発揮する。

 本書のなかにも三島由紀夫との交流について触れたくだり(「懐しき人びと」)があるが、三島由紀夫をして「すばらしい描写の才」といわしめた石井好子の随筆は、読めば読むほど人生を生き抜く強靭(きょうじん)な意志と精神によって培われたものだという感が強くなる。なにしろ、日本がまだ貧しく、海外旅行など夢のまた夢の時代にたったひとりでアメリカに渡って留学に出たのだから。父の石井光次郎は大臣や衆議院議長を歴任した政治家で、恵まれた家庭に育ったが、自分の環境に甘えるということがまるでなかった。それどころか、険しいほうへ、険しいほうへ、娘が選ぶ道はつねに自分を追いこむものだった。

2024.08.31(土)
文=平松 洋子(作家、エッセイスト)