『精選女性随筆集 中里恒子 野上彌生子』(中里 恒子 野上 彌生子 小池 真理子選)
『精選女性随筆集 中里恒子 野上彌生子』(中里 恒子 野上 彌生子 小池 真理子選)

 川端康成や小林秀雄、白洲正子らにあつい信頼を寄せられていた京都の古美術商・柳孝は、中里恒子の魅力について、比類ない端的なことばで表現している。曰く、「眼すじの良い方」(「眼すじの良さ」、『中里恒子全集 第18巻 月報』、一九八一・三、中央公論社)。中里恒子が柳孝の店を初めて訪れたのは、後に歴史小説『閉ざされた海』(一九七二、講談社)としてまとめられることになる宇喜多(うきた)秀家やその妻・豪姫について、構想を巡らしていた一九六〇年代後半にあたる。桃山時代の茶人や武将の消息(手紙)を求めて来店したのだが、その折の中里恒子の品選びに対して得た印象が、骨董商の用語である、右記のことばであった。

 この「眼すじの良さ」こそ、本書に収録された随筆すべてに貫流している中里文学の特性であると言っても過言ではない。それを育んだ要素が無数にあることは承知の上で、いま、試みに次のような三点に集約してみる。一点目は、豊かな暮らしに醸成されつつ、それを根底から見詰め直す経験を重ねてきたこと。二点目は、文学修業の中で多くの優れた文士たちと交流し、彼らの去就を見届ける役割を果たしてきたこと。そして三点目は、衣食住の隅々にまで行き渡る充実や洗練――いうところの文化資本の蓄積と暮らしにおける実践を、何者かになった証しとしてではなく、年齢に囚われず、新たな存在へと踏み出す起点とする発想を持ち続けたことである。

 中里恒子は一九〇九(明治四二)年に、神奈川県藤沢市に父・万蔵と母・保乃の次女として生まれている。中里家は代々、呉服太物問屋として栄えた富豪であったが、父が書や和歌・俳諧、古美術蒐集に傾倒したことにより、恒子が小学校に上がるころには破産して店を手放すことになった。一家は伊勢佐木町一帯の地主であった父方の叔母に助けられつつ、過ごすこととなる。長兄は横浜財界の重鎮・増田嘉兵衛が経営する貿易会社に勤務し、ロンドン支店に派遣され、また長兄と同じ会社に勤めた次兄もシドニー支店への転勤を命ぜられる中、恒子は横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉学園)に学んだ。

2024.07.25(木)
文=金井 景子(早稲田大学教授)