一九二三(大正一二)年、経済恐慌のあおりで増田嘉兵衛の営む貿易会社が倒産し、帰国命令を受けて次兄は帰国、長兄はイギリス婦人と結婚して後に帰国した。関東大震災により、家も学校も倒壊したことで、恒子は暮らしの原点を見詰め直す経験をする。被害が少なかった川崎実科高等女学校に転校し、同校を卒業した。

 読書好きの少女が、本格的に文学を志す契機となったのは、母方の縁者であった菅忠雄(当時、文藝春秋社勤務)の紹介で、永井龍男の知己(ちき)を得たことである。菅忠雄は恒子の文才を認め、作家修業の手解(てほど)きを行い、一九二八(昭和三)年、「創作月刊」(六月号)にデビュー作「明らかな気持」が掲載された。以後、永井龍男の推挽(すいばん)で堀辰雄や竹山道雄、神西清らの文芸同人誌「山繭(やままゆ)」に参加し、また渡辺千春伯爵未亡人・とめ子が主宰する文芸同人誌「火の鳥」にも活躍の場を拡げる。「火の鳥」に掲載された作品群によって、後には横光利一や川端康成にも注目される存在となった。恒子が兄の友人の弟である資産家・佐藤信重と結婚したのは、こうして作家として歩き始めた年の暮れ、一九歳のときである。佐藤家には、義兄の結婚相手であるフランス婦人がいた。結婚翌々年には長女・圭子が誕生している。

 本書の冒頭を飾る「閑日月(かんじつげつ)」(「火の鳥」、一九三三・一)が発表される前年、軽い肺結核を患った恒子は、新婚生活を送った東京を離れ、養生のために逗子町桜山に転居した。幼少時から縁のあった同地に魅せられた恒子は、ここにサンルーム付きの家を建て、以後生涯を通じてここで暮らし、執筆活動をすることとなった。実兄や義兄の連れ合いであった西洋婦人たち、その子どもたちである姪や甥たちとの交友の舞台となった家でもある。戦後、夫と離婚した後も、この家を離れることはなかった。「女三界(さんがい)に家なし」ということばが当たり前のように使われていた時代、ヴァージニア・ウルフが女性が小説を書く必須条件として「私だけの部屋」の必要性を説いた時代に、自分の居場所をひっそりと死守して書き続けたのが、中里恒子であった。本書の「I 日々の楽しみ」に集められた作品群によってその暮らしの中で磨かれた感性や洞察力に惹かれた読者は、ぜひ『わが庵』(一九七四、文藝春秋)をご一読されたい。

2024.07.25(木)
文=金井 景子(早稲田大学教授)