「第一部 アメリカでの私」に書き記された十代から二十代までの軌跡には、きびしさを自分に課して人生のコマを進めてゆく様子がはっきりと見てとれる。歌を歌うのがすきなこどもだったから、志望した東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学してドイツ歌曲を専門にした。しかしほどなくドイツ歌曲の奥深さに打ちのめされ、戦局の悪化や、二十一歳のとき結婚した夫がポピュラー音楽に関わっていたことなどにも影響され、一転ポピュラー音楽歌手、しかもジャズ歌手へ。しかし、結婚にもジャズ歌手にも破綻が生じた。文中で「自分は何になりたいのかもよくわからなかった」と吐露しているが、そのタイミングで「外国へ行きたかった」という願いをなにがなんでも実現させるところに意気地の強さ、大胆さがあらわれている。終戦のわずか五年後、単身渡米。二年におよぶ留学生活は、学校へ通いながらバレエやミュージカル、オペラの舞台を鑑賞し、ダンスや発声法のレッスンを受け、食べるものを倹約してでも夢に向かって邁進(まいしん)する日々だった。ところが、それでも自分に満足がいかなかった。日本へ帰れば「アメリカ帰り」というだけで箔がつくことは容易に想像できたし、別れた夫と近い場所にいれば、またぞろお互い傷つく。こうして本場でシャンソンを聴くという理由を見つけ、石井好子は自分で自分の手を引いて運命の土地へ導かれてゆく。

「第二部 パリでの私」に収録された四編の情感の豊かさはどうだろう。「舞台裏の女たち」では、一年間の契約をむすんで主役をつとめた「ナチュリスト」での人間模様が活写され、読みながら(かまびす)しい楽屋裏に紛れこんだような軽い興奮さえ味わう。モンマルトルの盛り場、ピガール広場一番地。あたりはキャバレー、カフェ、ホテルがひしめき合う不夜城だったという。そのまっただなかで日本人の若い歌手がロングランの主役を張るのだから、並大抵の努力では務まらなかっただろう。なのに、「舞台裏の女たち」をはじめ当時を綴った文章は自分の苦労話などあっさりとしたもの、もっぱら周囲のひとびとの描写に費やされる。「パリで一番のお尻」など、パリの風俗を浮き彫りにしながら女の人生の悲哀を描いて一級の随筆だ。「お金のために、いやな男にしばられてんの」とこぼす女給のイルダにせがまれて歌うシャンソン「泣くなネリー」。こうして生身のどん底の暮らしにじかに触れることで、石井好子のシャンソンに磨きがかかっていったのは言うまでもない。「懐しき人びと」に登場するのは、三百六十五日休みなくつづくレビューの日々のなか、出会ったひとびとのこと。過酷な夜の二回公演を支えたのは、アパルトマンで同居生活を送った朝吹登水子。多才な俳優マルセル・ムルージとの想い出。パリを訪れた三島由紀夫、今日出海(こんひでみ)、小林秀雄、毎日新聞支局長板倉進、そしておたがいに励まし合った歌手仲間の越路吹雪。ひとりひとりについてはみじかい文章なのに、人生の一瞬の交差が驚くほどの陰影をともなって心にふかく刻まれる。

2024.08.31(土)
文=平松 洋子(作家、エッセイスト)