この母親が、ある時、自慢の丸髷をもうやめにしたと言い、「……もう、おつとめはすんだからさ」と呟くのは哀しい(「母の丸髷」)。無論、沢村貞子はその言葉の意味を大人になって知ることになるのだが。

 沢村家の近所には、長唄の師匠という粋筋(いきすじ)の女性が住んでいる一方、針仕事で女一人の暮しを立てている貞子の伯母のような地味な女性もいる(「長唄のお師匠さん」「お豆腐の針」)。貞子はその両方に目をやる。そして自分は「芝居もの」の家に生まれながらもっと知識が得たいと女学校進学を希望する。

 大正十年(一九二一)、満十二歳で浅草に近い女学校、府立第一高等女学校(現在の都立白鷗高校)に入学。下町のエリート校である。父親は女に学問はいらないと反対したが、母親が支えた。ここでもおかみさんの力は強い。

 入学試験にあたって小学校の先生は「兄弟が芝居の子役をしていることは絶対いわないように。府立はよい家庭の子どもしかとりませんからね」と注意した。役者が世間で卑しめられていた時代である。実際、女学校では同級生に「あの人の兄弟、河原乞食ですって……」と陰口を言われたこともあったという(「関東大震災のころ」)。

 第一高女を卒業後、当時の女性としては珍しく女子大(日本女子大学師範家政学部)にも進学している。女学校の教師になることが夢だった。しかし、その頃から新劇に興味を持ち、昭和四年(一九二九)に、名優丸山定夫や山本安英(やすえ)らが立ち上げた新築地劇団に入団した。

 昭和初年の日本は左翼運動が盛んになった時代。それに対し、大正十四年(一九二五)にはすでにそれを弾圧するために治安維持法が成立、昭和三年(一九二八)には最高刑が死刑になった。

 新劇の世界は左翼運動が盛んで、若い沢村貞子は当時の夫の影響もありこれに加わり、治安維持法違反容疑で二度も逮捕されている。釈放後、離婚し、行き場のなくなった沢村貞子が選んだのが映画の世界で、京都にいる兄を頼った。俳優という「河原乞食」の世界はアウトサイダーが隠れやすい避難所だったとも言える。

2024.08.30(金)
文=川本 三郎