明治四十一年(一九〇八)に浅草に生まれ、浅草で育った。純然たる下町っ子である。浅草がまだ東京の盛り場として随一のにぎわいを見せていた頃。

 父親は小芝居(こしばい)で知られた宮戸座の座付作者。兄は前述のように若くして時代劇スターになった澤村國太郎。弟は戦後、映画界で活躍する加東大介。兄の二人の子供は長門裕之と津川雅彦。

「芝居もの」の一族に生まれているから生来の芝居好きと思いきや、『わたしの脇役人生』では「いつまでたってもこの社会に馴染(なじ)めない」と言っている。

 浅草は盛り場であるし、芸者の多い花街でもある。お祭りや行事が多い。確かにそういう華やかなところでありながら、他方で、地味で堅実な浅草がある。それを支えているのが「おかみさん」。

 沢村貞子の母親も、「芝居もの」として派手に出歩く父親をつねに陰で支え、つましい家計をやりくりしながら四人の子供を育てあげた、浅草のおかみさん。沢村貞子は父親より、この母親に親しみを感じていたようだ。

 小さい時から家事を仕込まれる。三つ年下の弟が子役として舞台に立つようになると、姉の貞子が小学生でいながら付け人のように弟の世話をする。家事の手伝いも(いと)わない。

 沢村貞子は後年、『私の台所』(暮しの手帖社、一九八一年)など暮らし方の本を出すが、その下地は、堅実な母親によって子供の頃から作られていたといっていいだろう。

「芝居もの」の父親とは対照的に母親は地に足が着いた生活者だった。情にも厚く、近所のパン屋の女の子がお金を落して困っている時には、毎日のようにその子供の家でパンを買うようにする(本書所収「パン屋のしろちゃん」)。

 大正十二年(一九二三)九月一日、沢村貞子が女学生の時、関東に震災が起きた。この時の母親は、いかにもしっかりもののおかみさんらしい。貞子をはじめ子供たちを先に逃がす。その時、貞子には小豆ご飯のはいったお櫃と三本の鰹節を、弟にはお湯のはいった鉄瓶を持たせた。とっさの的確な判断はまさに生活者の知恵だろう(「関東大震災のころ」)。

2024.08.30(金)
文=川本 三郎