「偉い先生がそんなふうにお書きになってはるんやから、きっとそうなんやろねえ」

 と微笑むであろうことを、入江敦彦の読者であれば、すでに御存じの筈なのである。

 そして、その微笑みの意味するところについてをも。

 そう、この〈微笑み〉は、本書のまえがきでも言及されているのである。

 他ならぬ〈京都の恐怖〉そのものの微笑みとして。

 入江敦彦は名著『京都人だけが知っている』以来、生粋の京都人の視座から、京都の法則、京都の秘密、京都の深層、さらには、京都という「ある種、異形」の魅力の本質を探究し、発信し続けてきた。外部に向けて、誠実に、懇切丁寧に。それは、京都を愛するが故である。

 その入江敦彦が、

「私の京都への愛情は、怖いものへの愛情とほぼ相似形といってもいい」

 と述懐し、筆をとった〈京怖〉への随想。これこそが、本書のスピリットなのだ。

 それは、〈京怖〉を象徴する「怖い場所」に纏わる物語風の随想(底本では八十八の〈京怖〉だったが、うれしいことに文庫版では九十九の〈京怖〉に殖えている。まさに百物語。しかも、地図に記された百物語でもある)として呈示されているのだが、そのそれぞれが、〈異形〉〈伝説〉〈寺院〉〈神社〉〈奇妙〉〈人間〉〈風景〉〈幽霊〉〈妖怪〉とさらにカテゴリー別に分類されているのも、本書の性格を語っている。「怖い場所」での実体験(まさに体感)を記述しながらも、入江敦彦は、恐怖を分析しているのである。愛する京都を分析したように、恐怖と怪異の本質に迫ろうとしている。実に愉しげに。実に怖ろしげに。あるものは文化論、認識論、史論、美学論にまで発展する。あるものは、機知に富んだショートショートのごとく極上の陥穽に突き落とす。そして、あるものは背筋に冷たい唇を押し当てる……。

 ここで、入江敦彦との出会いについて書いておきたい。

 話は、少し迂回するが……私が、恐怖小説のオリジナル・アンソロジー《異形コレクション》を作り始めて、早くも、十三年が経とうとしている。小説書きの「余技」にしては、いささか深入りし過ぎたのかもしれないが、私にとってこの仕事は、〈怪奇と幻想〉という極上の嗜好に思う存分耽ることのできる至福の機会であり、この分野の卓越した才能と親交を得ることのできる刺激的な出会いの場でもある。

2024.08.25(日)
文=井上 雅彦(作家)