筆者も『RRR』を何度となく見てきたが、その度にこのシーンでは気分が大いに高揚したものだった。だが、このシーンは単なる「派手なインド式ダンス」の披露に留まるものではないとも感じていた。これは、イギリスに代表される西洋に対するインドの異議申立てではないか、と。自分たちのスタイルの正当性と優位性を疑わず、それを押しつけてくる相手に対し、インド独自の手法で真っ向から立ち向かうさまは、一九二〇年だけでなく百年後の二〇二〇年代においても通じるところがあるのではないかと思ったのだ。

「ナートゥ」のシーンでは、最初戸惑い気味に、あるいは斜に構えて眺めていた白人が、しだいに激しいダンスにのみ込まれるように加わっていく。これは「台頭著しい」と言われる現代インドへのアナロジー、あるいはインド人の自信の表れであるかのようにも映る。この作品を製作したS・S・ラージャマウリ監督が実際にこのような現代的な意味合いまで意識していたかはわからない。だが、『RRR』が公開され、本国のみならず日本やアメリカなど多くの国で大ヒットした二〇二二年から翌二三年にかけての時期は、かつてないほどインドが世界から注目を集めた時期でもあった。G20の開催を通じた国際的なリーダーシップの発揮、相次ぐ外資の大型投資案件、IT分野をはじめとするグローバル人材の輩出、無人探査機の月面着陸──。かつて「貧困」や「後進性」、「停滞」で語られがちだったインドは、いまや米中に次ぐ「第三の大国」にならんとしている。インドが世界に目を向け、世界もまたインドに熱い視線を注いでいるのだ。

 同時に『RRR』はインドの近現代史、とりわけ反植民地闘争史を理解する上でもきわめて興味深い作品と言える。もちろんこの映画はフィクションである。第1章で詳述するように、「悪役」として描かれる英国人総督夫妻は架空の人物だ。ラーマとビームはいずれも実在のインド人民族運動指導者がモデルになっているが、史実では二人が出会ったことは確認されていないし、両者ともデリーに出てきて活動を展開した形跡もない。一九二〇年前後に大規模な武力闘争が行われたというわけでもない。『RRR』で描かれた内容が当時のインドを忠実に再現したものではないことは、大前提として踏まえておく必要がある。

2024.03.12(火)