私は深い帰依の中にいた。
だけど、この本で描かれた時期を通じて、私は臨床心理学教から片足を抜くことになった(両足ではないのがミソだ)。
私なりの社会・経済的な人生の危機があり、スピリチュアルな野の医者たちと出会い、「ありのままの私」や「ほんとうの自分」を発掘しようとする数多(あまた)の治療を受け、愛と光と笑いを大量に注ぎ込まれることで、私は転向せざるをえなくなった。
熱狂的な信者は懐疑的な信者になり、教会を離れて無教会主義者になり、以前あった業界の人間関係は気まずいものになり、疎遠になった。
多くのものが失われた。
しかし、そのことで得たものもあった。
心の内側だけしか見えなかった、あるいは見ようとしなかった私は、心の外側に広がっていて、そして心を支えたり、損なったりするものたちを垣間見ることになったのだ。
こういうことだ。
心や文化というソフトなもののことばかり考えていた私が、経済や社会というハードな力に気がついていく。心を根底の部分で規定し、ときに暴力的に粉砕する社会構造の力を知っていく。
この本で描かれているのは、その萌芽のプロセスだ。
野の医者たちが負っていた傷つきに触れ、そしてそれでも生きていこうとする心と交流することによって、最後の最後に、ようやく、そしてほんの少しだけ、しかし確かに、私はそのような現実を知ったのだ。
だから、読み返すと物狂おしくなる。このとき、私は未熟で、危うくて、スベっている。何が「現実」なのかを見失って、鬱になり、躁になり、空転している。
しかし、そうでもしなくては、私は臨床心理学と出会い直すことができなかった。深い沼に目までズブズブにハマっていた私が、縁に手をかけ、片足を抜き、外側から臨床心理学を睨(にら)むためには、どうしてもこの混乱が必要だった。
そして、その結果として、私は「心と社会」をめぐる膨大な問いたちを得た。この視点から、私は「心の治療とは何か」を考え直しはじめ、そうすることで臨床心理学を愛し直していくことになった。
2023.10.04(水)