『琥珀の夏』(辻村 深月)
『琥珀の夏』(辻村 深月)

 ――だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。

 ――よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチ(・・・・)するんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
J・D・サリンジャー著 村上春樹訳
(白水社刊)

 辻村深月作品を読んでいると、わたしは“ライ麦畑のキャッチャー”のことをよく思いだす。

 作者のサリンジャーはユダヤ系アメリカ人として第二次世界大戦に従軍。ノルマンディー上陸作戦などを経験し、戦後はPTSDに苦しんだ。ライ麦畑とは戦場のことで、子どもは兵士のことで、わたしが引用したこのシーンは、戦争を生き延びられなかった人を救いたかったという思いが描かれている、という読まれ方もしている。

 わたしの心の中にいる想像上の辻村さんも、このライ麦畑に、いつも立っている。

 何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない……ちゃんとした大人みたいなのは一人もいない場所で、はぐれた子どもが、ぜったい崖下に落ちないように。ほんとうに、ぜったい、ぜったいに。

 だから、今作を読んでいるときも、そんなイメージが脳裏に鮮やかに浮かんで消えなかった。

『琥珀の夏』は、ミライの学校という宗教的団体の施設を舞台に、子どもたちの成長や大人たちの失敗をめぐる切なく苦い夏の物語だ。

 クラスで目立たなくて、少し浮いている小学四年生のノリコは、華やかで友人の多いクラスメートの誘いに乗り、ミライの学校の学び舎での夏合宿に参加することになる。子どもの自主性を重んじる教育方針や、野菜や水のおいしさについて聞いて楽しみにしていたのに、着いてみると、聞いていた話とはなんだかちがう面もあった。ノリコは戸惑いながらも、ミライの学校で普段から親と離れて共同生活している子どもたちと親交を深めていく。凜々(りり)しい少女ミカとの友情を得たり、シゲルに淡い恋心を抱いたり。夏休みがくるたび通い続けることになるのだが、最後になる三年目の夏、なぜかミカの姿はなかった。それから幾年月。大人になって弁護士として働くノリコは、ショッキングなニュースに直面する。ミライの学校の当時の敷地から少女の白骨死体がみつかった、と……。

 子ども時代のノリコの目に映る学び舎の教育方針には、学校とも家庭ともちがう魅力があるようだ。子どもの頭を撫でて、「ミライは、ここにしかありません」「私たち大人じゃない。皆さんの中にしか、ありません」と語る先生たちは、浮いてしまう性質の子どもを黙らせたり排除したりせず、「一人も、誰のことも、置いていかない」ときっぱり宣言してくれる。子どもの自主性に任せ、話し合いでルールを決めさせる〈問答〉の時間に、ノリコは自分の頭で考えて話すことや思いを受け止めてもらうことを知り、普段の生活の中で抱えていた抑圧からの自由を得る。河原でトンボを観察していて思ったことをノリコが訥々(とつとつ)と話しだすシーンの、初めはおっかなびっくり、徐々に生き生きと確信を持ち始める描写が胸に響く。

2023.09.21(木)
文=桜庭一樹(作家)